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2015年03月14日
高崎市/上里見町の多胡神社と多胡碑 ♪
上野三碑のひとつ多胡碑に刻まれた「羊」という文字から、「羊太
夫」という名が語られて各地に残る伝説となり、安中市中野谷の羊
神社探しにつながりました。
もうひとつの多胡碑があるという上里見町(東間野)の多胡神社は地図にはあるのですが、はっきりとした場所がわかりませんでした。何年も気にかかっていたことが今年になってようやくわかったの
は、羊神社に参拝したご利益だったのかも。。。 3/13

130号を倉渕方面に向かい、安中榛名駅に向かう48号の合流点を
通過。坂を上りきって122号との合流点の少し先の

△左側に自販機があり、はす向かいに多胡神社参道入り口が
ありました。(神社名の標示はありません)
以前、何年もの間、月に数回 この道路を通っていました^^。

ビニールハウスの先にあるこの自販機が目印。

△多胡神社参道入り口

石段を30段ほど上ると、奥に小さな社殿が見えます。

△多胡神社 △多胡碑

中を覗くとこんな感じ。どこを探しても扁額や神社名は
見当たりませんが、境内に多胡碑があるので間違い
なさそうです^^。

△多胡碑 (拡大します)
人王四十三代帝元明天皇御宇賜之
弁官苻上野国片岡郡緑野郡
甘良郡并三郡三百庄郡成給
羊成多胡和銅七年三月九日
多胡宮霊羊宗勝神儀位
甲寅宣左中弁正五位下
多治比真人
大政官二品穂積親王左中弁
正二位石上尊右大臣正二位藤原□心
光耀欽言
※三百庄・・・三百戸 ※多胡・・・多胡郡
※和銅七年・・・和銅四年 ※左中弁・・・左太臣
※光耀・・・光耀山常福寺
歴史講座
『榛名にもあった多胡碑』 松田 猛 氏のテキストより

参拝を終えて戻る途中の左右に石碑があり、周囲に福寿草が
植えられていました。

△双体道祖神 「文化四年(1807年) 十二月・・・」

△庚申塔
左は「文政九 丙戌(1826年) 四月吉日」、中央は「萬延元 庚申
年(1860年)十有一月日」と刻まれています。
安中市中野谷の羊神社に置かれていた『羊神社 御由緒』に、
当社は多胡新田とも呼ばれる群馬県安中市中野谷宇久保に鎮座し、創建の由来は上野國多胡郡の多胡一族が上里見村真野(多胡神社鎮座)に落ち延び、その後延宝年間に下秋間字日向(堂宇鎮座)と当地へと移住すると共に、多胡新田を開発し、祖神とする多胡羊太夫藤原宗勝公を祀り、享和2年(1802)正式に多胡羊霊を祀った。
また縁記に『多胡羊太夫由来記』などが伝えられ、それに依れば、羊太夫宗勝は脇羽の生えた若者と権田栗毛という名馬を持ち、一日で都を行き来し参勤し、功により藤原姓も賜ったが、官軍に攻められ、最期は金色の蝶となり飛び去ったという。
また羊太夫は秩父で和銅を発見し、その功により多胡郡を賜り、記念に「多胡碑」を建てたとされ、境内にはその碑文の「多胡宮羊太夫宗勝神像位」碑がある。
とあり、武蔵国秩父地方での渡来人の採銅・製銅技術が、羊太夫
と深く結びついて語られていることにも心惹かれます。
◆多胡神社
夫」という名が語られて各地に残る伝説となり、安中市中野谷の羊
神社探しにつながりました。
もうひとつの多胡碑があるという上里見町(東間野)の多胡神社は地図にはあるのですが、はっきりとした場所がわかりませんでした。何年も気にかかっていたことが今年になってようやくわかったの
は、羊神社に参拝したご利益だったのかも。。。 3/13

130号を倉渕方面に向かい、安中榛名駅に向かう48号の合流点を
通過。坂を上りきって122号との合流点の少し先の

△左側に自販機があり、はす向かいに多胡神社参道入り口が
ありました。(神社名の標示はありません)
以前、何年もの間、月に数回 この道路を通っていました^^。

ビニールハウスの先にあるこの自販機が目印。

△多胡神社参道入り口

石段を30段ほど上ると、奥に小さな社殿が見えます。

△多胡神社 △多胡碑

中を覗くとこんな感じ。どこを探しても扁額や神社名は
見当たりませんが、境内に多胡碑があるので間違い
なさそうです^^。

△多胡碑 (拡大します)
人王四十三代帝元明天皇御宇賜之
弁官苻上野国片岡郡緑野郡
甘良郡并三郡三百庄郡成給
羊成多胡和銅七年三月九日
多胡宮霊羊宗勝神儀位
甲寅宣左中弁正五位下
多治比真人
大政官二品穂積親王左中弁
正二位石上尊右大臣正二位藤原□心
光耀欽言
※三百庄・・・三百戸 ※多胡・・・多胡郡
※和銅七年・・・和銅四年 ※左中弁・・・左太臣
※光耀・・・光耀山常福寺
歴史講座
『榛名にもあった多胡碑』 松田 猛 氏のテキストより

参拝を終えて戻る途中の左右に石碑があり、周囲に福寿草が
植えられていました。

△双体道祖神 「文化四年(1807年) 十二月・・・」

△庚申塔
左は「文政九 丙戌(1826年) 四月吉日」、中央は「萬延元 庚申
年(1860年)十有一月日」と刻まれています。
安中市中野谷の羊神社に置かれていた『羊神社 御由緒』に、
当社は多胡新田とも呼ばれる群馬県安中市中野谷宇久保に鎮座し、創建の由来は上野國多胡郡の多胡一族が上里見村真野(多胡神社鎮座)に落ち延び、その後延宝年間に下秋間字日向(堂宇鎮座)と当地へと移住すると共に、多胡新田を開発し、祖神とする多胡羊太夫藤原宗勝公を祀り、享和2年(1802)正式に多胡羊霊を祀った。
また縁記に『多胡羊太夫由来記』などが伝えられ、それに依れば、羊太夫宗勝は脇羽の生えた若者と権田栗毛という名馬を持ち、一日で都を行き来し参勤し、功により藤原姓も賜ったが、官軍に攻められ、最期は金色の蝶となり飛び去ったという。
また羊太夫は秩父で和銅を発見し、その功により多胡郡を賜り、記念に「多胡碑」を建てたとされ、境内にはその碑文の「多胡宮羊太夫宗勝神像位」碑がある。
とあり、武蔵国秩父地方での渡来人の採銅・製銅技術が、羊太夫
と深く結びついて語られていることにも心惹かれます。
◆多胡神社
2015年02月06日
安中市/中野谷の羊神社 ♪
今年の干支が『未』ということで、お正月は羊神社の
話題が多かったようです。

△ まずは咲前神社へお参り。。。 1/18

羊神社関連のグッズはこちらで求められます。
平成27年4月1日
太々神楽200年祭のポスター
太々神楽200年祭記念事業の
イベントがあるようです。
(←拡大します)
次に、中野谷の羊神社へ向かいました。

△久保公会堂前が臨時駐車場になっていて、他県の車が次々
に到着します。
※徒歩7分の「久保公園」(看板あり)にも 9台駐車できます。

公会堂入り口は向かい側の立派な蔵が目印

△羊神社
平成9年に社殿と十二社を新築し、翌年狛犬と
三峯社、鳥居が建立されました。

拝殿入り口に、一対のかわいい羊の石像が置かれ、なにやら
境内がにぎやかになったみたい。

東京から来たという男性が熱心に参拝していました。

羊神社由緒書きや案内が置かれています。
☆“もうひとつの多胡碑”がある
高崎市上里見町多胡神社はこちら
◆羊神社
安中市中野谷1751番地
【主祭神】 天児屋根命(あめのこやのみこと)
多胡羊太夫藤原宗勝公
(たごひつじだゆうふじわらのむねかつこう)
【創建】 延宝年間(1673~81年)
話題が多かったようです。

△ まずは咲前神社へお参り。。。 1/18

羊神社関連のグッズはこちらで求められます。

太々神楽200年祭のポスター
太々神楽200年祭記念事業の
イベントがあるようです。
(←拡大します)
次に、中野谷の羊神社へ向かいました。

△久保公会堂前が臨時駐車場になっていて、他県の車が次々
に到着します。
※徒歩7分の「久保公園」(看板あり)にも 9台駐車できます。

公会堂入り口は向かい側の立派な蔵が目印

△羊神社
平成9年に社殿と十二社を新築し、翌年狛犬と
三峯社、鳥居が建立されました。

拝殿入り口に、一対のかわいい羊の石像が置かれ、なにやら
境内がにぎやかになったみたい。

東京から来たという男性が熱心に参拝していました。

羊神社由緒書きや案内が置かれています。

高崎市上里見町多胡神社はこちら
◆羊神社
安中市中野谷1751番地
【主祭神】 天児屋根命(あめのこやのみこと)
多胡羊太夫藤原宗勝公
(たごひつじだゆうふじわらのむねかつこう)
【創建】 延宝年間(1673~81年)
2012年03月24日
神話ロマンの「飽馬神社」 ♪

伝説の本で見てから、ぜひ訪ねたいと思っていた
飽馬神社。 撮影3/17
秋間梅林ウォーキングのコースに含まれていました(^^v
咲前神社のホームページを見ると
正しい読みは「あくまじんじゃ」のようです。。。

背負いかごを置いて、雨の中で掃除する人がいて…

素朴な造りですが神楽殿もあり、春・秋のお祭があるとか。

ヤマトタケルノミコト(日本武尊)は景行天皇の命を受けて、
天皇に従わない東国の者どもを征伐するため、はるばる大
和から上州へやって来ました。碓氷の峠をめざして行く途
中、馬に乗ることに飽き飽きして、小高い丘に馬をとめて
休んだと伝えられ、この地をアキウマ(飽馬)というようにな
ったのが詰まってアキマというようになり、アキマ(秋間)と
なったという。『安中・碓氷・群馬Ⅰの伝説』(市川光一/ 著)

「源朝臣希典(乃木希典)書」と書かれた社額が
掲げられて…

シンプル形ですが、双体道祖神みたい。
近くの梅林に珍しい「餅つき道祖神」があるらしい
……探さないとね^^。
◆飽馬神社
2011年08月22日
羊太夫伝説 と羊神社 ♪


・・・のどかにコンニャク畑が
広がっています。
以前はなかったはずの石柱の正面に
「健康 学問 経済の権現様 羊神社
参詣道」と彫られ、側面には
「左側市道北進集会所角左折150米」
とあります。(ウ~ム、わかるような わからないような・・・


狭い道を北(たぶん)に進むと「久保公会堂」という看板が
掲げられた建物があり・・・

公会堂の前の道を進み、左側を見ると・・・

うっそうとした杉と竹林を背に、羊(ひつじ)神社がありました。

こぢんまりとした・・・拝殿正面。

境内には左から「三峯神社」の祠と「絹笠明神」、多胡碑と
同じ碑文が刻まれた石碑が並んでいます。
絹笠明神は、この地も養蚕が盛んだったことを物語っているよ
うです。

ます。吉井町の多胡碑に刻まれた「給
羊」の文字から生まれた『羊太夫伝説』
と、根強い“ひつじさま信仰”を伝えてい
るようです。
この地区は多胡姓が多く、戦国時代に
羊大夫の子孫と称した武将が落ち延
びて定住したという説もあるようです
が・・・(?)
【羊太夫伝説】
奈良時代初期に上野国多胡郡に生まれた(羊の年、羊の日、羊の
刻に生まれたそうな)羊は成長すると2m50cmもあり、学問にも武術にも優れ、父の後を継いで郡司となりました。
羊太夫は「権田栗毛」という稲妻のように走る馬に乗り、小脛(こはぎ)という家来を連れて、奈良の都へ日参していました。
あるとき、小脛が昼寝をしていると、わきの下にトビの羽根が生えていることを知り、羊はいたずらでその羽根を抜いてしまいました。
それで都に日参することもできなくなり、朝廷からは謀反の疑いをかけられ、ついには攻め滅ぼされてしまいました。
羊太夫は家来たちが戦死したのを見届けると、最初は金色の蝶に、そしてトビに変身して飛び去ったそうです。
(参照:「羊太夫伝説鑑賞ガイド」多胡碑記念館)
☆2015年の羊神社はこちら
◆羊神社参詣道の道標がある場所
2011年08月13日
「多胡碑」もパワースポット !?

▲研修の一環として訪れた「多胡碑記念館」 8.12

てくる、石に刻まれたメッセージ』
という素敵なタイトルのリーフレッ
トには、どこかで見たような文字
の配置…どうやら多胡碑の銘文を
意識したもののようです^^。

1階 【研】研修室、【寶】…ホール
【刻】石の室、【径】エントランスギャラリー
2階 【展】企画展示室、【興】文字の室
【颯】中庭、【多胡】多胡碑の室
【拓】拓本の室、【景】露台、【古碑】古碑の部屋
ところで気になったのが、解説をして下さった市役所の方が
「最近、多胡碑はパワースポットとして人気があり、見学の
方が多いです」と言っておられたことです。
なるほど、古代の謎めいた碑文からは何か強力なメッセージ
が発せられているのかも知れません。
☆富士山と多胡碑の秘密
☆和同開珎/羊太夫の伝説をめぐって
2011年08月06日
伝説「お八重が淵」 ♪

安中の伝説としては有名なようですが、九十九川沿岸に
碑があったという記述が謎。。。国道18号線の工事で文
化センター脇に移したことがわかりました。

安中文化センター隣、安中小学校プール横の小道をたどり、
奥まで進むと、大木の下に人目を避けるようにありました。

九十九川を背にたたずむ「お八重が淵」の碑
安中城主に仕えた美しい女中お八重さんは、周囲の女たち
の嫉妬から無実の罪をきせられ、生きたまま蛇やムカデ等と
瓶(かめ)に入れられて、九十九川の淵に投げ込まれたとい
う想像するのもつらくむごいお話。。。調べるのも躊躇してい
ましたが…安中事情に詳しい“くりまんじゅうさん”のブログで
詳細な記事を見つけましたので、紹介させていただきます。
yume-no-nakade ご近所桜・満開
http://yume-no-nakade.blogspot.com/2008/04/blog-post_11.html

安中城坂口門跡の板標も文字が薄れ…

九十九川の のどかな背景が、いちだんと淋しさを浮き上がらせ
ているようです。

そうとは知らず、図書館への行き帰りにお八重さんの碑の下を
いつも通っていたのでした。
参考文献:『安中市志』
『安中市史』
『安中碓氷群馬Ⅰの伝説』市川光一 著
2011年08月02日
「仙ケ滝」の伝説 ♪

今から420年ほど前(天正18年)、上杉と前田の軍はまわりの
城を次々に陥れて、大導寺駿河守政繁(だいどうじするがの
かみまさしげ)の立てこもる松井田城を攻撃してきました。
守りの強固な松井田城でしたが、仙ケ滝からの水の取り入れ
口を断たれ、落城しました。
この仙ケ滝まで落ちのびてきた城主の娘「せん姫」が敵に追わ
れ、もうこれ以上逃れることはできないと知り、この滝に身を投
げたといいます。それで村の人達は「せんが滝」と呼ぶようにな
ったのだそうです。
(参考文献:安中碓氷群馬Ⅰの伝説 / 市川光一 著)
以前、松井田町横川の「小根山森林公園野鳥の森」に行った
帰り道で、偶然「仙ケ滝」という表示板を見つけ、寄ったときの写
真。滝を囲むように、供養のため(?)の石仏が並んでいます。
なぜか、湖や池や滝には女性の悲しい伝説が伝えられている
ことが多いようです。「せん姫」のほかにも、「おせん」という娘が
仙ケ滝に身を投げたという言い伝えもあるそうです。

安中市学習の森ふるさと学習館で
「発掘された安中の中世遺跡展」開催中!
市内で発掘された、安中城・松井田城・板鼻
城・古城遺跡・内出城・中宿Ⅱ遺跡などの中
世遺跡の資料を展示しています。
◆仙ケ滝 安中市松井田町土塩(ひじしお)
◆小根山森林公園 安中市松井田町横川
2011年07月16日
伝説「遠丸石」 ♪

むかし、伊勢の三郎 は(現在の安中市)下野尻の
東あたりで、夜陰に隠れて、旅人が通ると脅かして
盗賊のようなことをしていたそうな・・・
そして長鳴き鳥が三声鳴くと引き上げていました。
ある時、鳥が鳴くので帰りましたが、いつまでたって
も夜が明けません。
声がしたあたりを探してみましたが、ふたつの大きな
石があるだけでした。
そんなことが続きましたので、それが「天の教えなら
盗賊はやめよう」と悔い改め、伊勢三郎義盛と名を
変えて、源義経の四天王となり勇名を遺しました。

そのあたりは、長鳴き鳥の名をとって遠丸という地名に
なったのだといいます。
伊勢三郎に関する逸話は松井田にも残されています。
(出典:安中市史 第3巻 民俗編)
「伊勢三郎は山賊ではない!」というご意見もあります^^。
源義経大辞典
◆遠丸石 (安中市安中)
2011年07月13日
ブルーベリー畑は“伝説の屋敷跡”でした ♪

松井田町下増田のKさんの畑で、「ここは伊勢三郎義盛の屋敷跡らしいです。この辺りが門、あの辺りには小さな池があり・・・」とうかがい、「えっ?伊勢三郎の屋敷は板鼻にあったはず!」と思いましたが、以前にもこの説は聞いたことがあり、
調べてみると出典先が異なる二説があることがわかりました。

源義経が伊勢三郎義盛と出会った場所として、鎌倉時代(成立)
の『平治物語』には松井田とあり、室町時代(成立)の『義経記』
では、義経が平泉に向かう途中で板鼻の義盛屋敷で出会って家
臣になったとされ、板鼻には「朝みず橋」「鏡が池」「片葉の葦」
など板鼻七不思議として、義盛伝説が多く残っています。
また、板鼻の義盛屋敷跡と伝えられる取勝社は義盛の霊を祀
る社であるとされています。
これは板鼻が交通の要所であり、政治的にも重要な場所として
栄えていたため、松井田から板鼻へ変化したものと考えられる
と解説されています。
(参考:西上州の中世 / 安中市学習の森ふるさと学習館 発行)
2011年01月26日
咲前神社の白ヘビさん ♪


昔から白ヘビが棲んでいるといわれ、「白
ヘビをお貸しください」と拝んで家に帰ると、
家の棟や梁に白ヘビがいて養蚕の敵、ネズ
ミを退治してくれたそうな。。。

絹笠神社と拝殿の左右にある根子石。
*養蚕が盛んだったこの地の蚕の神「絹笠様」
*小石を乗せると願いがかなう・・・根子石(ねこいし)
(もちろん風子も、小石を乗せて願かけしました^^V)

今は白ヘビさんの絵馬が風にゆれて・・・

ひと筆書きのヘビの絵、長虫様


灯籠の足元に残る大木の切り株あと・・・借りていった
ヘビを大木のむろ(室)に返したとか・・・

実際、ヘビをよく見るそうで、先頃も2mほどの大ヘビの
抜けガラがあり、確かにその残骸がありました。
今日も親切な職員さんたちが丁寧に説明をしてくださって、
とってもありがたい参拝でした^^。
☆太々神楽はこちら
家庭的で心なごむ、お薦めパワースポット!
◆咲前神社 安中市鷺宮3308
2011年01月24日
安中の “ポックリ不動” ♪

九十九(つくも)川に架かる湯沢橋を渡ると、湯沢温泉・湯沢館
があります。

クリ弁天などが数多く存在しているそうです
が、2年ほど前、偶然この看板に“ポックリ
不動尊”という文字をに見つけてから気になって仕方がないので、
探しに出かけました。。。


急坂を上った先の左側にポックリ不動尊の入り口。
※駐車スペースはありませんのでご注意を!

せまい下り坂を降りた先にお堂があり、聖不動威怒明王が
おわします。地元の人々の信仰心が感じられる お不動さま



湯沢温泉前の崖崩れのあたりに埋もれていたお不動さまが、
夢のお告げで発見されたと伝えられています。
秋間石造りで元禄13年(1700年)の年号と、桂昌寺住職十四
世乾海和尚と彫ってあり、光背の火炎は爪で彫ったのだろう
ということで、爪引き不動と言われました。別名「ポックリ不動」
ともいわれ、今も地元の人々に信仰されています。
(参考:群馬伝説集成 / 市川光一 著)

小山を上りきって、下ったところに桂昌寺があります。
お不動さまがあるのは桂昌寺の裏山です。
◆桂昌寺 安中市下秋間1
安中市指定重要文化財の「桂昌寺の鐘」があります。
この鐘は2代安中藩主、井伊直好(いいなおよし)の奥方、長生院
の菩提をとむらうために、寛文3年(1663)に鋳造したものですが、
鐘の音の響きが悪くなったので、嘉永3年(1850)に高崎の鋳物師
小林弥兵衛によって鋳(い)直したものです。
(安中市ホームページより)
2011年01月19日
石橋にされていた 観音さま ♪

野殿の信号から212号を走ると、鷺宮の本多病院の
少し手前の大木の根本に・・・

安中市指定重要文化財 聖観音碑(しょうかんのんひ)
があります。

が彫られています。
年号も造立者も不明ですが、鎌倉時代末期
頃のものとされ、中央の菩薩の姿がなんとも
やさし気

むかし、この村の人が馬に乗って石橋を渡ろうとすると落馬すると
いう不思議な橋があり、確かめてみようと石橋を起こしてみると、
石の下側に仏さまの像が三体彫られていました。
この仏さまは“おびんずるさま”と呼ばれ、体の具合の悪いときは
同じ部分をなでて祈れば治ると伝えられています。
(参考:安中市の文化財、安中市ホームページ)
◆聖観音碑 安中市鷺宮
2011年01月03日
伝説「鰻橋(うなぎばし)」 ♪

イトスギさんの近くの道路端にあった「鰻橋」の停留所 !?
うなぎばし・・・おもしろい名前!何かありそー^^。

そういえば以前、学習の森で「安中市学習の森周辺史跡の
解説文」が貼られているのを見て、写真を撮っておいたので
すが、すっかり忘れていて・・・その解説文の中にこの写真が
ありましたが、さぁて・・・場所がわかりません。

最初はこの橋かと思ったのですが、写真とは違う

川の周辺をうろうろして、少し上流を眺めると・・・

小さな橋と標柱が見えました


学習の森の看板の反対側の道に入り、人家の横の細い道を
徒歩で下ります。

鰻橋と弘法の井戸(伝説)
たしかに石が組まれた小さな井戸跡もありました。


◆鰻橋・弘法の井戸(上間仁田字鰻橋)
信濃国(長野県)を遍歴した真言宗の祖 空海(弘法大師)は、
碓氷峠を越えて上野国(群馬県)に入った。空海は病んだ者に
薬を施し、皆に仏教を説いた。ある日、この地を通ったおり、大
雨により川の水があふれ困り果てていると、川の中から耳の生
えた大きな鰻が現れ、鰻が橋の代わりとなり川を渡ることがで
きた。空海は鰻が干ばつでも困らぬようにと錫状を地面に突き
立てて抜くと、水が湧き出し井戸となった。
これからこの橋を「鰻橋」といい、村の名前も「鰻橋」といい、井
戸は弘法の井戸と呼ばれている。
(参照:安中市学習の森周辺史跡の解説文)
2010年09月02日
大泉寺に眠る「妖怪チャンコロリン」 ♪

▲浄土宗 無邊山唐梅院大泉寺
小暮淳さんのブログ「小暮淳の源泉ひとりじめ」の
謎学の旅④ 「妖怪チャンコロリン」で(リンクさせて頂きました。)
「その妖怪チャンコロリンが、今でも安中市の大泉寺に眠っています。
しかも、チャンコロリンの墓なのに、チャンコロリン自体が墓石にされているのです。」という記事を読み、
妖怪!?しかも、安中市!? これは確かめずにはいられません。
というわけで、
安中郵便局の向かい側で、西広寺と並ぶ大泉寺(だいせんじ)を
訪れました。

何度か火災により焼失、再建を繰り返したことで記録を失い、詳細
な由来は不詳だそうですが、創建は文安年間(1444~1449)と伝
えられています。明治元年に山門を残して焼失、平成8年に本堂が
再建されました。



▲鐘楼も梵鐘も立派

されていると伝えられる延命地蔵▲


▲井伊直政正室の墓
墓地には2基の五輪塔があり、東側は箕輪城主・井伊直政の正室
唐梅院のもの、西側は井伊直政の長男直好(直之)の生母隆崇院
のものです。 【安中市指定史跡】
恐る恐る

チャンコロリンという語感が、なんとも楽しい会話を醸してくれます。

▲妖怪マニアの間で有名なチャンコロリン石のお墓



▲左から見て… ▲右から見て… ▲いかにも転がりそう

◆大泉寺 安中市安中3丁目21-44