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2012年03月05日
皇女和宮のシークレット♪

有吉佐和子の小説『和宮様御留(かずのみやさまおとめ)』
には、和宮は15歳で月のものがあったように書かれています。
(参照:『和宮様御留』/ 講談社文庫)
文献や関係文書を精査しての執筆であったでしょうが、和宮も
和宮の身代わりのフキも、女性のしるしを得たのは江戸に向け
て旅立つ前という設定になっています。
では、、、
中山道を江戸に下り、板鼻宿で一泊したときに初めて月のもの
をみて、始末したものを埋めたと伝えられる板鼻の皇女和宮資
料館の小さな庭にある「月の宮ちゃこ姫さま」の石宮はどうなるの?
時期が異なるではありませんか。
小説はフィクションとは言え、何かひっかかる。。。
ほんとうに板鼻宿で初めて月のものを迎えたのか…
実は、、各地の伝説や云い伝えによくみられるように
和宮が板鼻宿に泊まったことを、よりドラマティックに後世に伝え
たいというフィクションだったのか…
はたまた宿場の飯盛女の信仰のなせるわざか…
こんな小さな発見から
イメージはどんどんふくらんでいくのです^^。
2011年09月26日
きょうの散歩は「板鼻七不思議」 ♪

曇り空ですが板鼻公民館「ふれあい学級」の行事、
「板鼻史跡めぐり・七不思議」の日です。
今回は定員を満たしているので、一般は参加できないという
お話でしたが、“取材”という名目で、勝手に^^最後尾からつ
いて行かせていただく予定


待ち時間に和宮資料館の小さな庭をのぞくと…

童女のような顔が線彫りされて
いることに、気がつきました。

板鼻七不思議「姥が池」の名残りの水路
(個人のお宅なので場所は秘密です)

「伝説・鏡が池と片葉の葦」の前
ハンドマイクを手に説明する勅使川原先生。

称名寺の「逆さモミジ」前で資料を朗読していただきました。

いつもは元気なワンコもびっくり!
七不思議を順番にめぐり。。。
「近くに住んでいても知らなかった」という声も聞かれた
24名参加のにぎやかな板鼻歩きでした^^。
2011年09月11日
かねつ橋の供養塔はどこ?

国道18号「板鼻東」の信号から安中方面に向かって少し歩くと…

エネルギー供給会社の左側の橋に、以前から気になっていた
「寒念仏橋(かんねんぶつばし)供養塔」がひっそりと佇んで
いました。クルマに乗っていては気付かない地味な存在ですが、
立派な石が使われています。
中山道を往来する旅人が渡っていた石の橋。。。
享和2年(18029)、板鼻宿の本陣を勤める木嶋七郎左衛門が
寒中に念仏を唱えて廻って得た浄財で石橋を架け直したとき、
旅の安全を祈願して建てられたものです。

地元では石橋を「かねつ橋」と呼んでいたとか…
中山道板鼻宿の東、現在は安中市の東端になります。


正面には「西国 秩父 坂東 橋供養」
右側面には「享和二年壬戊春三月 木嶋七郎左衛門毘頼」
左側面には、先代の遺言に従って方々に石を探し求めて橋を
かけ直したという内容が書かれているそうです。
裏面には「信州伊奈郡橋嶋村 石工 三澤染右衛門吉徳」と
彫られているようですが、読みとるのが難しい状態で…案内板
の文字もかすれて判読不能


供養塔の下を流れる板鼻堰。
狂歌で名を馳せた蜀山人が板鼻を通りかかったとき
「この橋をつくることは、千体の仏像をつくるより功徳
がある…」と紀行文の中で寒念仏橋を讃えています。
(参考:『安中市の文化財』)
◆寒念仏橋供養塔 安中市板鼻 【安中市指定史跡】
2010年12月01日
板鼻の“道の神さま” ♪

訪ねてみたのですが、あいにく休館日。
入口に企画展「しぶかわ 道の神さま」のポ
スターが貼られてるのをみて、板鼻にも貴重な
双体道祖神があることを思い出しました。

板鼻旧道の東端にあり、寛延4年(1751)と刻まれています。

肩を組み酒を酌む仲睦まじい双体道祖神の表情に、
思わず微笑んでしまいます^^。
昔からの道の辻では、庚申さまや道祖神は道を守って
下さる神として信仰されてきました。
小さい祠(ほこら)も見かけますが、昔の人々は祠の中
の神さまや道の神さまに、事故や病気の安全をお願いし
ながら道を通ったのでしょう。。。
野辺で風雨に晒されて、姿も表情も定かではない石像が
多いのですが、なぜか・・・魅かれます。

八坂社境内にある大型の道祖神(五尺:約150cm)

安中市老人福祉センター近くの個人宅前にあり、
史跡的価値が高いものと云われています。

表情は不明ですが、なんとなく好きなのが
殿小路坂にある20㎝ほどの小さな道祖神。
2010年11月07日
和宮は替え玉(説)?
『板鼻公民館生涯学習発表会』が
11月6日(土)、7日(日)にありましたが、、、
雑事に追われていて気付くのが遅く、終了1 時間前に
かろうじて古文書展示場の和宮資料館に…

上段の間ではお茶席が設けられていて、見学に来られた方達が
お茶席を楽しむ姿が見られました。(↑ 2/22 撮影)
板鼻の史跡などを教えていただい
ている勅使川原四士男先生と、地
域の歴史の研究家でもある方がお
られて、いろいろとお話を伺うことが
できました。
和服姿の方や、お手伝いの方々が
こまごまと立ち働く中、のほほんと“おうす”とお菓子を頂いている
うちに、あっという間に閉会の時間に…。(↑皇女和宮資料館スタンプ)

写真を撮る余裕もなく、資料館の後ろにある
『月の宮ちゃこ姫さま』の石宮を1枚だけ…
和宮は降嫁の旅の途中、板鼻宿本陣到着後に初潮を
迎え、そのいきさつをとどめる石宮。
月のものを待ち望んだ宿場の飯盛女たちの心をささえる
信仰の石宮だったと伝えられています。
(板鼻史跡保存会資料より)
で、有吉佐和子さんの小説『和宮様御留』でも有名ですが、
「和宮は2人いて、大奥に入った和宮は替え玉だった」と
いう仮説のもとに和宮は偽物だった的な歴史ミステリー
番組が何度か放映されています。。。
実際には家茂と和宮は仲が良かったといわれていますが、
和宮の墓が発掘された時に、遺体が家茂の写真を持って
いたのだそうです。
一方で家茂の墓の発掘では、埋葬時に切られた女性の髪が
見つかっているそうですが、DNAは和宮とは違うとか。
当時は一夫多妻ですから、二人の仲が良くても、こうしたこと
があっても当然かもしれません。
和宮は、家茂埋葬後に髪を下ろした(切った)ので、納棺でき
ないと考えられます。
ストーリーとしては面白いのですが、歴史家の間ではこの説は
否定的だそうです。
11月6日(土)、7日(日)にありましたが、、、
雑事に追われていて気付くのが遅く、終了1 時間前に
かろうじて古文書展示場の和宮資料館に…


上段の間ではお茶席が設けられていて、見学に来られた方達が
お茶席を楽しむ姿が見られました。(↑ 2/22 撮影)

ている勅使川原四士男先生と、地
域の歴史の研究家でもある方がお
られて、いろいろとお話を伺うことが
できました。
和服姿の方や、お手伝いの方々が
こまごまと立ち働く中、のほほんと“おうす”とお菓子を頂いている
うちに、あっという間に閉会の時間に…。(↑皇女和宮資料館スタンプ)

写真を撮る余裕もなく、資料館の後ろにある
『月の宮ちゃこ姫さま』の石宮を1枚だけ…

和宮は降嫁の旅の途中、板鼻宿本陣到着後に初潮を
迎え、そのいきさつをとどめる石宮。
月のものを待ち望んだ宿場の飯盛女たちの心をささえる
信仰の石宮だったと伝えられています。
(板鼻史跡保存会資料より)
で、有吉佐和子さんの小説『和宮様御留』でも有名ですが、
「和宮は2人いて、大奥に入った和宮は替え玉だった」と
いう仮説のもとに和宮は偽物だった的な歴史ミステリー
番組が何度か放映されています。。。
実際には家茂と和宮は仲が良かったといわれていますが、
和宮の墓が発掘された時に、遺体が家茂の写真を持って
いたのだそうです。
一方で家茂の墓の発掘では、埋葬時に切られた女性の髪が
見つかっているそうですが、DNAは和宮とは違うとか。
当時は一夫多妻ですから、二人の仲が良くても、こうしたこと
があっても当然かもしれません。
和宮は、家茂埋葬後に髪を下ろした(切った)ので、納棺でき
ないと考えられます。
ストーリーとしては面白いのですが、歴史家の間ではこの説は
否定的だそうです。
2010年09月11日
思えば☆叶う ♪
プロフィールに“旧中仙道沿在住 暇人”と書かれていて、
素敵な写真をブログに掲載しておられる
“くりまんじゅう”さんから、安中市の古い写真ストックを
たくさん、ご好意で送っていただきました。
くりまんじゅうさんのブログ→ "Yume-no-nakade"
←見ていましたら、、、な、な、なんと、
見たい見たいと思っていた
かつて板鼻にあった醸造会社「 十一屋」の
全景写真が!!! (古いもので出典は不明)
昨日も近所の方(高崎出身)と話していて、「安中の人は親切で
やさしいねー」という意見が一致したばかりで・・・。
こんなに次々と願いが叶ってしまってよいのだろうかと、ちょっと
怖くなるくらいです^^。
素敵な写真をブログに掲載しておられる
“くりまんじゅう”さんから、安中市の古い写真ストックを
たくさん、ご好意で送っていただきました。
くりまんじゅうさんのブログ→ "Yume-no-nakade"

見たい見たいと思っていた
かつて板鼻にあった醸造会社「 十一屋」の
全景写真が!!! (古いもので出典は不明)
昨日も近所の方(高崎出身)と話していて、「安中の人は親切で
やさしいねー」という意見が一致したばかりで・・・。
こんなに次々と願いが叶ってしまってよいのだろうかと、ちょっと
怖くなるくらいです^^。
2010年08月28日
悲しい出会い ♪

所の「筋トレ教室」に出かけました。
まだ新しい建物の広間に写真が展示さ
れていて、、、見覚えのある文字が!
『昨年(平成21年)末に、取勝社が取壊されました。
(エーッ、なんですって!最近ぢゃないですか!・・・)

によって建立されたとの記録があります。
例祭は10月に行われていました。(クリックで拡大)
これは同所に住んでいた伊勢三郎義盛の霊を祭ったものです。
また、「十一屋萬歳記」にも文欧年代(約190年前)に酒を奉納した
との記録があります。
私たちの祖先が永い間守ってまいりました同社が姿を消したことは、
誠に残念です。
もう二度と見ることができない同社を一枚の写真にまとめてみまし
た・・・。 平成22年2月4日 篠原日出夫』
という、添え書きがありました。
今は、夏草がぼうぼうと茂る取勝社跡です。
ひと目見たかった・・・と残念に思っていましたが、
わずかな時間差でチャンスを逸してしまったことが悲しい
・・・出会いでした。
2010年08月18日
板鼻・十一屋酒造の銘酒 “群鶴” ♪

広い敷地に、高い煙突と赤煉瓦の蔵、瓦葺きの屋根と白壁の建物が連なる、
十一屋(じゅういちや)という醸造会社がありました。
重厚な建物で圧倒されたそうですが、そのお話は箕郷町の「ギャラリー蔵人(くらんど)」さんの奥さまからお聞きして・・・ずーっと気になっていました。
が、、、銘酒 “群鶴”(ぐんかく)のラベルや写真は、いまだ見
つけられません。
(宿場の時代には「牛宿」と呼ばれ、移動牛馬の泊り宿で、公儀の乗馬出役の上役人の定宿でもあったとか。また、「群馬県近代化遺産総覧」に醸造倉庫として「十一屋・煉瓦倉庫」が記載されています。)
宝暦3年(1753)江州(滋賀県)から、「十一屋野田六左ェ門酒造店」として板鼻に開店し、着実な経営で市外にも販路を開拓し、おおいに繁栄したそうで、後年、米騒動が起こったときは困窮者を助け公儀から褒彰されたと記録にあります。
『十一屋万歳記(万年帳)』が郷土資料として残されていますが、
店の営業上の重要事項や板鼻と近郊に起きた事件などを詳細に記
録したもので、大正12年9月1日の東京大震災の記述で終わってい
るそうです。

十一屋改築記念大売り出し(『安中市史』より)


板鼻公園と「しげた総合食料品店」の駐車場になっています。「牛宿」前にあった道祖神が今は板鼻公園の向かい側の八坂神社跡広場に並んでいます。↑
1945年1月、地元の造り酒屋三軒(宮川酒造、(株)十一屋ほか)を母体に設立された銘酒“福達磨”できこえた群馬酒造も2007年、清酒市場の縮小や清酒離れに伴い売上高の減少傾向が続き事業停止となりました。
地元の人々に晩酌の友として親しまれてきた銘酒が手に入らなくなり、どんなにか惜しまれたことでしょう。「群鶴は辛口でおいしいお酒だった・・・」と、今でも懐かしむ声が聞かれます。
参考書籍:安中市史
中仙道板鼻宿(川島一郎 著)
参考資料:安中文化会誌『冊簡』144号
掌編小説「庄どん」(勅使川原 良)
◆(株)十一屋があった場所
2010年07月29日
板鼻・七不思議伝説 〈6〉 ♪

(3)姥が池(うばがいけ)
昔、天神山の麓、徳定屋敷跡の土手
下に、かなり大きな池がありました。

応永の末頃(1410年)南朝の尹良(ただなが)親王が戦没され、遺された王子・良王君(6歳)は天神山の麓、小野徳定の館に隠れ住み、臣下の上杉祐定の妻、伊久女が姥としてお育てしていましたが、4年後、尾張の国に移り住むことになりました。姥の伊久女は手塩にかけた良王君との別れを嘆き悲しみ、この池に身を投じてしまったのだそうです。このときからこの池は“姥が池”と呼ばれるようになりました。村人は姥を哀れみ、池のほとりに立って「姥やーい」と呼ぶと、天神山にこだました声は「おーー!」と応えてくると伝えられたそう
です。
で、現在の姥が池ですが、勅使川原先生のアドバイスをいただいて、古城団地近くの徳定屋敷跡に建つ個人のお宅の脇に、水路と
鯉が泳ぐ生け簀として残っていることを確認することができました。
その後、水は道場川にそそがれているようです。
以上で板鼻七不思議はすべて、場所と詳細を掲載することが
できました。
ご協力いただいた皆様に心より御礼申し上げます。
◆参考文献:中仙道板鼻宿 / 川島一郎 著
◆参考資料:安中文化会発行「冊簡2009年夏145号」
板鼻史跡めぐり(其の弐)
【付記】板鼻七不思議について/ 勅使川原四士男
掌編小説 姥が池今昔 / 勅使川原 良 作
◆天神山
2010年07月26日
板鼻・七不思議伝説 〈5 〉 ♪

(2)朝見ず橋 のあった
場所につきましては、地図を片手に
歩き回りましたが、ついにわからず、
勅使川原先生に教えて戴きました。

板鼻公園

八坂神社跡(俗称:天王様)・・左奥に神輿蔵があります。

板鼻宿歩きで必ず立ち寄る双体道祖神 (板鼻1丁目4)



↑ 伊勢三郎義盛の霊を祀る取勝社跡 (クリックしてご覧ください)
かつて、現在の板鼻公園前に八坂神社がありました。現在は広場になっていて、神輿蔵や石碑、双体道祖神などがあります。
地図のラインに沿って旧18号を渡って北に100mほどの突き当りが取勝社跡になります。現在は大木があるのみで、雑草におおわれて石祠も見つかりません。ここら辺りに伊勢三郎義盛の屋敷があり、その入口の道場川(どうじょうがわ)に架かっていたのが「朝見ず橋」だそうです。(道場川は現在、途中から地下水路となっています。)
義盛は軍資金調達のために旅籠を装い、旅人を泊めては殺害し、金品を奪ったことから、いつしか里人の噂にのぼり「夕べにこの橋を渡って屋敷へ入った旅人も、翌朝にその橋を渡って出る姿を見た
者はない」との噂がささやかれ「朝見ず橋」の名が伝えられるようになったという伝説です。勅使川原先生に貴重なお話をうかがって掲載することができました。
◆参考文献:中仙道板鼻宿 / 川島一郎 著
◆参考資料:安中文化会発行「冊簡2009年夏145号」
板鼻史跡めぐり(其の弐)
【付記】板鼻七不思議について/ 勅使川原四士男
2010年07月18日
板鼻・七不思議伝説 〈4 〉 ♪

(6)釜鳴屋の釜の
痕跡を求めて
はいかい しているうちに、
立ち話をしていた地元の方から
偶然、釜鳴屋さんの子孫の
方のお住まいを聞くことができました。(^^v

鷹巣橋東の信号近く、現在の上杉内科医院の駐車場あたりが
釜鳴屋さんのあった場所です。お隣は割烹旅館・古久屋さん


↑ 鷹巣橋東・信号 ↑板鼻七不思議リスト
★釜鳴屋に伝わる『釜鳴屋の釜』伝説★
板鼻宿が宿場として栄えていた頃、商売繁盛の饅頭屋さんが
ありました。
せいろを載せて饅頭をふかす釜には雄釜と雌釜があると言い
伝えられていたそうです。
雄釜には女性の使う腰巻をかぶせると鳴りやみ、
雌釜には男性の褌(ふんどし)をかぶせると鳴りやむそうな。
あるとき、
参勤交代で殿様が御成りになり、饅頭屋の釜が鳴りやまなか
ったそうですが、何度もかぶせてようやく釜は鳴りやんだとか。
そして、本陣に宿泊された殿様が食された饅頭が「美味しい」と
お褒めの言葉を賜り、「釜鳴屋」と名前を付けていただいたのだ
そうです。
何年か前まで、子孫の方の物置に一抱えほどの大きさの実物
の釜があったそうです・・・^^。
(間接的に聞いたお話なので、表現の違い等ご容赦ください。)
◆釜鳴屋があった場所
2010年07月16日
紫陽花の墓 ♪

荒木寅三郎さんのお墓には、冬に訪れただけでしたので
梅雨どきはどんな感じなのか、行ってみることにしました。



↑横から見ると確かに墳丘です。 ↑入口の案内と墓地にある案内板

「安中市指定史跡 荒木寅三郎之墓」と書かれています。

石段の脇にアジサイが色鮮やかに咲いていました。

寅三郎さんと奥さんの名前が仲良く並んでいます。
小高い丘から板鼻を見守っていてくれるようです。
★関連記事はこちらから
周囲を歩いてみましたが夏草が繁っていて、
龍的塚古墳の入口らしき場所は見当たりませんでした。
古墳名:板鼻1号 龍的塚古墳
所在地:安中市板鼻378
形状:前方後円墳または帆立貝形墳 墳長20m、後円部高さ5m
出土物: 円筒埴輪
◆荒木寅三郎の墓
2010年07月09日
板鼻・七不思議伝説 〈3 〉 ♪

(5)逆さモミジ は・・
安中市指定重要文化財の
『称名寺の鐘』で知られた
称名寺さんの境内にありました。


と伝えられています。
(現在 称名寺裏門)



↑ 鐘の説明文 ↑ 約300年前の梵鐘 ↑ 板鼻七不思議リスト

鐘は板鼻町在住の鋳物師金井兵部重久(かないひょうぶしげひさ)
の作品で、戦時中の供出を免れた鐘のひとつ。宝永5年(1708)作

▲称名寺本堂
で、板鼻七不思議のひとつ「逆さモミジ」は、いずこに・・・?
地図を片手に、山崎稲荷辺りと見当をつけて行ってみたのですが、
わかりません。。。細い道をたどると称名寺の境内に出たので
たまたまそこにおられた方(たぶんご住職)に訊ねると、いとも簡単に
「あぁ、これだよ。何代目かなぁ・・」とおっしゃったのです^^。
ななんと、目の前にモミジの木が・・・



≪逆さモミジ伝説≫
謡曲『鉢木(はちのき)』に、「今ぞ憂き世を離れ坂、墨の衣(ころも)の碓氷川(うすいがわ)、下(くだ)す筏(いかだ)の板鼻(いたはな)や、佐野のわたりに着きにけり、佐野のわたりに着きにけり。」
と読みこまれていますが、板鼻は交通集落・宿場として発展するとともに、地方政治都市としても発達したと見られています。
この地の称名寺に鎌倉時代の武士 佐野源左衛門常世が宿泊した
折、持ってきた楓の杖を地にさしておいたものから芽が出て大木と
なったと伝えられています。
☆突然訪ねて次々と質問したにもかかわらず、ご親切に伝説の説明
をしていただき、(なにか用事に出かけられる直前の様子でしたが)
お忙しいところ、ありがとうございました。

折りたきし桜あとある紅葉かな
紀 紹之
(参考:安中市の文化財、中仙道板鼻宿)
◆天台宗 称名寺(しょうみょうじ)
群馬県安中市板鼻2212
2010年07月08日
板鼻・七不思議伝説 〈2 〉 ♪

(7)お腰かけの石 は・・
伊勢殿跡の北側にあります。

ご覧ください→

虫よけスプレーでガードして!「片葉の葦」の右側を
奥に入るとかなり傷みの進んだ鳥居があります。

振り向くとこんな感じで、蚊がブーンブン・・・


文字も薄れてしまい読みとれないほど・・・

石段を上ると、木造の小さな諏訪社があります。

奥の祠の横に座れそうな石・・・う~ん、ちょっと違う感じ。。。

社の奥から板花会が手入れをしている花畑が見えます。
伝説では、この諏訪社の由来は
「むかし奥州街道の路のそばに『御腰懸の石』と呼ばれた、高貴の
御方のお休みになった大石があったが、通行の馬がその石に驚いて
跳ね上がるため、乗者が落馬するので、これを丘にうつし土を盛り
祠を建てて諏訪明神と称した。」と伝えられているそうです。
【参考:中仙道板鼻宿 川島一郎/ 著】
(なるほど、石を探しても見つからないはずでした・・・^^。)
◆諏訪社跡
2010年07月07日
板鼻・史跡ある記 〈1〉 ♪



んで「25/ 鏡が池」「26/ 伊勢殿」とあります。

があったことを思い出し・・・行ってみました。
道路面より1.2mくらい高くなっている野菜畑の
隅に祠があり、その後ろに石碑がありました。


「伊勢殿」と読めます。
こんな大事なことを
見落としていたなんて

もう一度地図を確認すると、
旧東山道鎌倉街道分岐点の文字が! ↓

「鎌倉街道」とは、鎌倉時代に幕府のある鎌倉と各地を結んだ
道路網で、鎌倉幕府の御家人が、有事の際に「いざ鎌倉!」と、、
鎌倉殿の元に馳せ参じた道でもあります。
板鼻には伊勢三郎伝説が多く残っていますが、『義経記(ぎけい
き)』には、京都を脱出して奥州平泉に向かった源義経は、盗賊・
伊勢三郎義盛と出会うため上州板鼻へ立ち寄り、伊勢三郎と
主従の約束をし、後は平泉まで無事な旅を続けたと記されている
とか。 (伊勢三郎が義経に始めて会った土地については諸説が
あるようですが、伝説的資料なので・・・^^)
板鼻では伊勢殿の石碑がある一帯の地が伊勢三郎の屋敷跡
だと言い伝えられているようです。
(参考:中山道板鼻宿/ 川島一郎 著)
◆伊勢殿の石碑
2010年07月04日
板鼻・七不思議伝説 〈1 〉 ♪


いたとき見つけた「伝説・鏡が池と片葉の葦」
の看板に、「七不思議のひとつである」と書か
れていて、残りはどこ?と思っていたのですが・・
先日、デスクの引き出しの整理をしていたら、3枚のコピーが
出てきました。

◎七不思議が並べられています。
元の図は手書きで描かれたもので
平成13年10月・勅使川原作成と署名も。

←こんな感じで・・・
(クリックで拡大してご覧ください)

そうだ、もうひとつあった!と
探したのがこちらの画像です。↓

木材も文字も最近のもののようですが・・・史跡を
大切に思う気持ちが伝わってきます。

板花会のポピー畑の片隅にあり、おや・・・?と思って撮って
おいたものです。
※現在ここには「味噌なめ石」はありません。
こちらをご覧ください。(2012/5/10 追記)
偶然というか、不思議というか・・・思いがけないことが起こる
ものです。
これこそ見たかった資料ですが、我が家の引き出しに10年間も
眠っていたのです!Otto 氏が誰かからもらって、引き出しに仕舞い
こんで忘れられていた・・・模様です。
他は「板鼻名所史跡分布図」と「板鼻城略図」ですが、跡形も
なく消えてしまったお城の資料を見るだけでもワクワクします。
こちらはまたの機会にご紹介いたします。
「板鼻史跡保存会」の方々が先人の遺産を遺そうと、コツコツ調
べて資料にされたようで・・・それが降って湧いたように自分の手の
中にあることに・・・感動してしまいました^^。
◆「味噌なめ石」の場所
◆伝説「鏡が池と片葉の葦」の場所
2010年05月03日
板鼻に眠る算学者 小野栄重 ♪

板鼻宿に近い南窓寺
旧国道18号からの石段を上がり、門を入ると左手に・・・

小野良佐栄重のお墓(群馬県指定史跡)がありました。
◆小野栄重(おの・えいじゅう)
【江戸後期の和算家 1763~1831】
碓氷郡中野谷村 須藤家に生まれ、後に板鼻の小野家の養子と
なる。江戸で藤田貞資(ふじた・さだすけ)門下となり、関流算学の
大家として知られる。
後には伊能忠敬(いのう・ただたか)のもとで測量・天文学を学び、
伊能図作成のための測量隊にも参加した。寛政9年(1797)には
板鼻に戻り和算塾を開き、多くの弟子を育て、その門弟たちが
上毛に和算の隆盛をもたらしたと評されている。



↑小野栄重の墓と案内板 ↑道路から見える看板
(クリックで拡大画像)
※資料によってはお隣の実相寺と掲載されているものがあり、
実相寺さんの墓地で散々探したあげく、散歩している人に訊いて
やっと見つけましたが・・・道路から見える場所の案内板をよーく
見れば、「小野栄重之墓」と書かれていた・・のでした(^^ゞ
◆南窓寺 安中市板鼻1915