群馬で出会った自然や季節の花、文化遺産、つぶやきなどを写真で綴ります。
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2012年06月28日

金井忠兵衛旅日記(7) ♪

 金井忠兵衛さんは1月2日に板鼻を出発し、2月27日に長崎着。
 3月2日に長崎を発ち、佐賀→下ノ関→山口→出雲大社→京都
 へと山陰道をたどりました。

 
  △4月3日の日野 野田村の記述

  板鼻十一屋六佐衛門こと
  野田金平を訪問し、ここに泊まった。
  
  この家は見かけより、中に入ると良い普請だ。
  酒肴品々 夕飯
  夕方、金平が帰ってきて、ふとり綿入れ
  ふとり袷(あわせ)、ふとりちゃはん、帯、単(ひとえ)羽織などを
  貸してくれて、我ら道中衣装、下帯まで、湯をかけ洗濯した。
  これより蚤(のみ)なしになる。
 (意訳)
  
   ふとり○○…寒い時期の着物には、どてらのように綿が入っ
   ていたので「ふとり」と表現したのでしょうか。
   旅籠の不潔な寝具などで、現代では考えられないような難儀
   が待ち受けていた長旅であったことが伺えます。 

   また、先に発った知人が道すがら、茶店の目に付く場所に名
   前を書いていたという記述が見られ、後続の旅人に無事を知
   らせていたようです。

   旅の途中で知人に手紙を出したり、おみやげの品を知人宅
   に飛脚便で送ったりしていますが、街道や宿場が整備され、
   飛脚による輸送・通信が盛んだったことが想像できます。

       * * * * * *

  いよいよ忠兵衛さんは中山道に入り、信州から上州へ向かい、
  松井田には、大勢の人や馬が迎えに来ていました。 
 
   
  △金井忠兵衛旅日記 最後の記述

  軽井沢の南つちや武介宅に泊まり
  峠 熊野権現様 信濃国と上野国の国境
  御宮 中央より国境なり、御師多し
  山中 茶やあり
  はんね石(刎石)

   (坂本から碓氷関所を通過して・・・)

  4月14日夜
  藤屋次左衛門泊り 三百文よし
  太郎五郎次、迎えの馬など松井田朝陽氏まで
  来る、そのほか、八本木あたりまで、大勢迎いなり

  安中  十五日めでたく帰宿なり。


  と、、、旅日記を閉じています。(完)


    参考:『金井忠兵衛旅日記』(あさを社) 
       編集/金井方平・監修/淡路博和
  


2012年06月21日

金井忠兵衛旅日記(6) ♪


  (clickで拡大します)

 1月2日に板鼻を発った金井忠兵衛さん一行は約2週間で伊勢
 に到着し、1月20日に出発。奈良→大阪→山陽道→長崎道へ
 と進みましたが、松坂からはいよいよ忠兵衛さんは1人で長崎 
 に向かいました。

 長崎には4日間滞在しましたが、ここには食事に関する記載は
 ほとんど見られません。
 長崎で出合った珍しい異国風俗の虜になってしまったようです^^。

 忠兵衛さんは、ちょうど長崎奉行の鹿狩りに遭遇しました。
 奉行一行は立派な身なりで、鉄砲125挺、大筒30挺に火をつけ
 て通り、打ち上げも見られました。
 町人達も精一杯の支度で鉄砲を持ち、行列がオランダ屋敷や唐
 人屋敷の前を歩いて御陣場へ向かう様子や、酒肴持参で毛せん
 を敷いて見物する人あり、丸山遊女が3~4人日傘で見物する姿
 あり、いろいろな出店あり・・・お花見のような賑わいを生きいきと
 描写しています。


  (clickで拡大します)


 さらに港見物をした忠兵衛さんは、清国船や異国人の様子を
 詳細に記しています。

 清国船の長さは22、3間~30間(約40~54mくらい)で、幅は
 5~7間(9~13m弱)80人から120人くらい乗れそうだ。
 ○恒順○得泰○金全勝○全慶という4隻の清国船で 
 瀝青(れきせい:黒い防腐塗料)が塗られ、龍や獅子のような
 飾りがある。(意訳)

 異国人については、
 “清国人はけしぼうずにてさげ髪なり。朝鮮人そう髪にて若き
 男ハさげ髪なり。老人さげずにかんざしにて留め。
 阿蘭陀人かぶり物ぬがず、但し髪毛はち々れ毛なり。人物よし”
 と観察しています。
 

 
 “おらんだ人どう着、見慣れざる切れにて
 此処袋になりてあり”と
 当時の日本人には珍しいものだったのでしょう、
 ポケット付きのチョッキのイラストもあります。

 当時の日本人が外国文化に強い関心を示し、驚き、観察する
 様子を、忠兵衛さんの目を通して感じることができる、貴重で
 たのしい旅日記です。

  ≫続きはこちら
 
 『金井忠兵衛旅日記』より
   編集/金井方平・監修/淡路博和(あさを社)
  


2012年06月16日

金井忠兵衛旅日記(5) ♪

 
   △奈良 唐招提寺の軒瓦のイラスト

  唐招提寺は大きな寺で、石の三重の塔がくずれていて
  いかにも古い感じがする。
  奉納金を6文出して二仏堂に登り、礼拝した。
  堂内には阿弥陀如来、大日如来座像があり
  実に驚くような普請で、諸堂が多い。
  諸堂の軒瓦は小口で約12センチほど 
  ・・・というような内容です。
 

 江戸時代の東国からの庶民の旅は伊勢参りのほかに富士山、
榛名山などの山岳信仰の旅も盛んでしたが、往路と復路は違う
コースを取ることが多かったようです。
 金井忠兵衛さん一行は、中山道は往復路とも使っていますが、
行きは山陽道、帰りは山陰道を通っています。

  
    △『松井田町誌』より借用 (clickで拡大) 

松井田町誌」には松井田町に保存されている手形のうち約1800枚の百姓、町人の手形を分析して、碓氷峠を通過した旅人の行く先等を分析しているが、信州方面が約半分を占めて最も多く、次いで北陸方面が多い。西国への手形も13%あるが、九州へのものは豊後への1通のみ。長崎への旅がいかに遠方への旅であったかがうかがえる。 引用:『金井忠兵衛旅日記』発見された旅日記/三好範英 

 ≫続きはこちら 
  


2012年06月09日

金井忠兵衛旅日記(4) ♪


 △宮川を渡った中川原の図 『伊勢参宮名所図会』より

 『金井忠兵衛旅日記』(金井方平・編集/淡路博和・監修)は、
 板鼻宿で宿屋を営んでいた金井忠兵衛が、文政5年(1822)に
 上州安中(板鼻宿)から長崎まで旅をして綴った日記です。
 (伊勢参宮並大社拝礼紀行)
 
  江戸期における庶民の移動には厳しい制限があったようですが、
 信仰を目的とする伊勢参りに関しては、通行手形さえ発行しても
 らえば、実質的にはどの道を通ってどこへ旅をしてもあまり問題は
 なく、参詣をすませた後には京や大坂見物を楽しむ者も多かった
 とか。
  伊勢参りは爆発的なブームとなり、数百万人規模のものが、60
 年周期に3回起こったと記録されているそうです。

 『金井忠兵衛旅日記』より 
 17日夜、伊勢に入り、御師(おんし)三日市太夫と共の者2名
 の出迎えで、御師宅に泊まり、旅籠の食事とは格段に違う豪華
 な料理でもてなしを受けました。その時の献立がこちらです。
 
 くわし・雑煮・吸もの・肴・硯ぶた・阿わび・たい・九年母(ミ
 カンの一種)・ゑび・いも・こぶ・かまぼこ
 引さかつき
 大鉢 大たひ
 本膳 皿…なます 汁
     坪…二品しれず 飯
 二膳 小皿…さしミ
     猪口…すみそ 汁 九年母
     平…あわび 青な 志みとうふ
     皿…やき肴

 翌18日は雨でしたが、朝からご馳走。夜も忠兵衛ほか6名、高木
 氏宅に招かれご馳走が続きましたが、一人は大酒を飲んで来れ
 なかったと書かれ、19日も雨で、朝から酒が出ています。
 (一般的な宿の食事は「一汁二菜」だったようです)
 
  なぜ御師邸でこのような供応を受けることができたのか…
  御師はもともと神職でしたが、江戸期にはお札を売るなどして、各
 地を歩いたようです。忠兵衛さん達も突然三日市太夫のもとを訪ね
 たわけではなく、以前からの繋がりがあり、御師側も大切なお得意
 さんを歓迎する必要があったのでしょう。
  当時、御師は旅行の斡旋、宿泊と祈祷(神楽)、土産物の販売な
 ど、総合旅行業のような感じだったようです。

 御師の宿屋では盛装した御師によって豪華な食器に載った伊勢や
 松坂の山海の珍味などの豪勢な料理や歌舞でもてなし、農民が住
 んでいる所では使ったことがないような絹の布団に寝かせるなど、
 参拝者を飽きさせないもてなしを行った。また、伊勢神宮や伊勢観
 光のガイドも勤め、参拝の作法を教えたり、伊勢の名所や歓楽街を
 案内して回った。(Wikipedia)
 
 
 ☆参考サイト:ひょうご歴史ステーション
 ☆参考書籍:『江戸の旅文化』神埼宣武 著

 ≫続きはこちら
  


2012年06月06日

金井忠兵衛旅日記(3) ♪



金井忠兵衛さん一行は1月6日は下の諏訪(下諏訪)に泊まり、
塩尻、なら井(奈良井)へ進み、薮原宿でのコメント。

 宮の越の内、字こいという一軒家の茶屋がある。
 おかねという24~5の女性がいて
 7~8年以前、木曽道中一の美しい女性と言われ
 今も美しい。
 あめの餅という名物ほか酒もあり、女性は酒も少しいける。
 この家は至って見苦しいので、女性が美しく見えるのだ。(意訳)


大井宿では
 いよいよ伊勢道に入り、2里ほど馬に乗ったが
 たいくつなので、馬の駄賃を残らず払って馬は返した。 
 『金井忠兵衛旅日記』編集/金井方平・監修/淡路博和(あさを社)


 12日目に名古屋に到着。
 忠兵衛さん達より7日前に江戸廻りで東海道を上って来た板鼻宿の
6人と合流し、17人となって桑名に向かいました。
 伊勢神宮に参拝してから、周辺の見学を終えて5人は松坂で分かれて京都へ。12人となった忠兵衛さん達一行は伊賀越えで奈良へ。
 吉野、高野山、和歌の浦を廻り、和歌山では7人が四国の金毘羅参りに向かい、5人となった忠兵衛さん達は大阪に向かいます。
 さらに大阪で3人が金毘羅参りに、残りの一人は松坂で分かれて
京都に向かい、いよいよ忠兵衛さんは一人で長崎に向かったのでした。

 江戸時代の旅は、見知らぬ土地に向かう不安があったのか団体で出かけるのが一般的だったようですが、昔も今も日本人はツアー好きなのかも。
 当時は伊勢参り、金毘羅参りはポピュラーのようですが、長崎まで行くことは珍しかったようです。
 一人になっても長崎に向かった忠兵衛さんの心意気やいかに。何が忠兵衛さんを駆り立てているのでしょうか。。。 

 ≫続きじはこちら
  


2012年06月03日

金井忠兵衛旅日記(2) ♪

 文政5年閏正月2日(太陽暦で
2月5日)、前夜より雪が降る午前
8時頃、金井忠兵衛一行は伊勢
参りの同行者11人と共に板鼻宿
を出発し、中山道を西に向かいました。
 その中の一人、角菱定次郎は「角菱屋」という旅籠を営んでいました。角菱屋は現在の板鼻館です。 
                   
△金井忠兵衛旅日記/あさを社
 
忠平衛さんはイラストや記号などで、旅日記をわかり
やすくする工夫をしています。




 出発当日は雪の中を、仲間や大勢の人が板鼻宿から15㌔ほ
 ど離れた松井田宿まで送ってくれました。
 江戸後期、文化の爛熟とともに庶民の間で流行した物見遊山
 の旅の代表が「伊勢参り」でしたが、旅の安全が保障されない
 当時では、長期の旅立ちに際しては水盃を交わし、近隣の親し
 い人々が集って別れを惜しんだようです。


碓氷横川の関所では手形改めがありましたが、江戸方面に
行く人は手形がいらなかった
と書かれています。
 (読下し文:佐藤繁子)


 二日の夜
 ○坂本
 この宿は真中を用水が流れている。
 △町中程北側の 中村屋仲右エ門宿に泊った。

 <坂本宿での料理>は豪華メニュー(^^v 
 ○吸もの…山鳥せり
 ○大平(平椀)…色々取合わせ玉子とじ
 ○大鉢…かづの子(干しかづの子)
 ○皿…きんぴら牛蒡
   上酒を2升ばかり呑みました。
 (夕飯)
  ○皿…鮭塩引 ○平…里いもとうふ
  ○中…つけなす ○汁…白みそ
 (朝)
  ○皿…ぶりの切り身 ○平…とうふ里いも、
    しみこん、椎茸又かわり茸
 
 これは他の泊まりへ出す平(椀)へ椎茸を入れたものだろう 
 このようなご馳走なので、茶代共 半両を渡した。
 他に宿方つちや弥四郎方に義太夫の師匠 君太夫がいたので、
 上酒1升と2朱(800文)を渡した。(現代風に訳しました)

 碓氷峠 はんね石 難所なり
 ひとつぬいで うしろにおいぬ 衣更 (芭蕉)
 ※芭蕉の句碑 当時は刎石(はねいし)坂を登ったところにあっ
  たそうですが、現在は坂本宿西端の八幡宮の入り口にあります。
 みねの茶屋
 山中の茶屋
 ※みねの茶屋、山中の茶屋は当時はかなり賑わっていたそうで
  すが、現在はありません。

 また、
 軽井沢では「大風にて吹雪道分からず、よんどころ無く昼八ツ時(2時)より沓懸(沓掛)宿泊り」と書かれ、人の気性が荒いのか、何かトラブルがあったのか、軽井沢、沓掛、追分の三宿にはなるべく泊まらない方がよいと記しています。
 
 金井忠兵衛旅日記は出版された時、“全工程約4,000キロのグルメ行脚“というキャッチフレーズだったようですが、行く先々での生活や文化、休憩する茶屋や宿の善し悪しや、きれいなお姉さんがいるからここで休みなさいなど…後に続く人へのアドバイスたっぷりの、とっても楽しい旅のガイドブックです^^。

 ≫続きはこちら

◆あさを社オンライン書店
 http://fcreat.com/asa/001_rekisi.html
  


2012年06月01日

金井忠兵衛旅日記(1) ♪

 安中市板鼻の金井方平氏方の土蔵から見つ
かったという江戸時代の旅日記は、昭和61年(1986)読売新聞に掲載され、郷土誌家の間
で反響を呼んだそうです。

 この旅日記は金井氏の5代前の金井忠兵衛
が、文政5年(1822)長崎まで旅行した際の道中記を、半切紙の横綴じ60枚、120ページにわたり綿密に綴ったものである。
   
   「文政五年閏(うるう)正月二日 伊勢参宮並大社拝礼記行」▲
 この旅日記の資料的価値は、一つには江戸時代に一般の庶民が
長崎のような遠方まで旅行し、しかも旅日記を書き残したという例は、群馬県内では過去発見例がないということ。
 二つにはこの日記が単に旅程、宿賃等に止まらず、各地の文化、生活、食べ物等に関する実に豊富な情報を提供してくれることによる。
 『金井忠兵衛旅日記』/発見された旅日記:三好範英より引用


金井忠兵衛プロフィール 
 板鼻の本陣、脇本陣に次ぐ家格であった金井家は牛馬宿(うし宿)を営み、数百坪の屋敷と本格式築造庭園を構える、代々年寄役の
家柄でした。
 文化8年の大火により板鼻は致命的な打撃を受け、復興がはかどらないとき、年寄金井忠兵衛は宿役人総代として江戸に出府し窮状を訴え、復興助成金獲得に尽力しました。また、文化11年から4年間続いた板鼻寺院間の紛争を解決しました。 参考:『板鼻昔物語』

 忠兵衛の長崎への関心がいつごろ、なぜ芽生えたのか今のところ明らかではないが、こうした江戸との交流の中で育まれていったのかもしれない。また板鼻宿は中山道の宿場町として東西の文物が比較的早くもたらされた場所であり、和算家の小野栄重も忠兵衛と時期を同じくして活躍しているから、そうした文人との交流から、蘭学などへの憧れも生まれていたのかもしれない。
 『金井忠兵衛旅日記』/発見された旅日記:三好範英より引用


 ≫続きます→金井忠兵衛旅日記(2)  


2012年05月30日

金井忠兵衛旅日記 ♪

 観光ボランティアガイドで活躍している友人から便りがあり、
 『金井忠兵衛旅日記』という本があることを知りました。
 ガイドで板鼻を廻り、鷹巣神社の麓にある金井忠兵衛のお墓
 訪ねたとか。金井家は新田氏の一族で、倉賀野十六騎の旗頭
 金井淡路守の末裔とされる旧家です。

 江戸時代後期、板鼻宿で牛馬宿を営んでいた金井忠兵衛は、
 文政5年(1822)1月2日から3ヶ月半の長い旅に出ました。
 『金井忠兵衛旅日記』は、中山道から伊勢参宮、西日本を経て、
 九州の長崎まで、31カ国を旅し、各地の旅籠で出された夕食や
 朝食の内容などを記録した、簡潔な日記のようです。
  参考サイト:もりたたろべえ

 当時の時代背景としては
 1800 年(寛政12年)伊能忠敬が蝦夷地を測量
 1808 年(文化5年) 間宮林蔵らが樺太を探検
 1825 年(文政8年 )異国船打払令  など

 ※牛馬宿…本陣、脇本陣に次ぐ資格をもつ公定の宿屋。平時
  には移動牛馬の宿泊場。
  伝馬継ぎ立て牛馬、軍用騎馬などの屯宿私設として主要宿
  駅に設置され、家格、屋敷の広さは群をぬいており、公儀の
  上役人の定宿とされていた。 
   参考:『中仙道板鼻宿』 川島一郎/著 



 “鷹巣神社の麓”という墓地の場所を確認してから出かけてみ
 ると、いつも通り過ぎている古城団地入口の信号脇でした。


 石段に沿うように石仏や庚申塔が並び…

 
 中央に金井家の墓石、墓碑銘には金井万平さんの名があり、
 後ろ側に金井忠兵衛のお墓がありました。



 
 金井忠兵衛方智 行年六十歳とあります。


 はるばる九州まで長旅をし、その記録を残してくれた人が板鼻
 にいたなんて!なんとも感慨深く、嬉しい出会いでした^^。

 ※掲載した内容に誤りがありました。金井忠兵衛の墓石の画
  像は同じ名前を継いだ方のものでしたので、正しい画像を差
  し替えました。失礼致しました。(5/31 追記)  

 ☆「金井忠兵衛旅日記」の詳細はこちらです^^。
  


2011年10月24日

安中出身の落語家 桂ひな太郎師匠 ♪


         (写真を掲載させて頂くことをお許し下さい) 

 10月5日の迷道院さんブログに寄せられたコメントで
 「『高崎まちなか寄席』の23日の桂ひな太郎さんは
 安中出身で、故志ん朝さんのお弟子さん」という
 情報があり、安中と聞いては放ってはおけませぬ。
 …というわけで、買い物にかこつけて高崎に出かけ
 ました。                     

 古典落語はラジオやテープで聴いてウン十年icon10です
 が、寄席のライブは初体験です。(ドキドキ♪)

 スピーカーから流れる出囃子(越後獅子)とともに登場
 した師匠は“あれっ、どこかで会ったような人だなぁ”
 という印象でした。

 師匠が登場しただけで客席の温度がガラリと変り…
 
 「落語界の坂東玉三郎、または病み上がりの舟木一
 夫…」という自己紹介で、客席がどっとなごみます^^。

 演目は『幾代餅(いくよもち)』
 
 吉原で全盛の花魁、幾代太夫の錦絵に一目惚れしてし
 まった一途で正直な奉公人 清蔵と太夫のなれそめ噺。

 ひな太郎さんは、噺の中の若旦那(実は奉公人 清蔵)を
 思わせるやさしい面立ちですが…

 歯切れのよい江戸っ子の喋りや花魁ことばが粋でicon12
 久々に素敵な“落語”を聴かせていただきました。

 いつの間にか、200席の客席はギッシリ満員!
 時間の都合で中座したので、休憩後の演目を聴けな
 かったのが…心残りでした。

 ◆geinin.jp(芸人さんプロフィール)
  受賞歴をご覧ください→  桂ひな太郎
  


2010年09月05日

板鼻・かけがえのない人々 ♪

「中仙道板鼻宿」の著者、川島一郎氏は板鼻にとってはかけがえのない方です。
≪川島一郎先生の略歴≫
先生は明治13年11月9日、群馬県碓氷郡板鼻町に生まれました。
板鼻小学校、前橋中学校、第一高等学校を経て、帝国大学政治科を
 卒業後、高等文官試験に合格し、
 神奈川県属、北海道および長野県
 理事官、山梨県警察部長、東京都
 日本橋および文京区長等を歴任し
 ました。
 昭和20年5月、仮の住まいを戦火に
 より焼失したため、郷里板鼻に帰住
 し、長く板鼻町議会議長として後輩
 を指導し、昭和35年10月22日逝去
されました。

昭和24年に「板鼻史跡保存会」が結成され、川島先生が板鼻町史の資料収集、執筆編纂に当たりました。多くの郷土史研究家や寺院に保管された古文書、旧家所蔵の重要資料などが役立ったと編纂の経過に書かれています。
↓苦心の執筆を物語る原稿
ご高齢にもかかわらず、時には炎暑の中を
実地の調査に出かけ、凍える寒夜に執筆し、
まったく昼夜の別なく全身全霊をかたむけて
詳細に研究され、遂に昭和35年、35集に及ぶ
大収録を脱稿されました。
町史の編纂ということでわずかな費用は出ていましたが、町村合併後は予算削減で打ち切られ、先生は私財をなげうって賄われたそうです。

また、町村合併後、計画通りに発刊ができなくなり、その一部を「板鼻昔物語」として発刊することにしましたが、その一部すら見ることなく、先生は35年秋、命の灯を燃やし尽くしたかのように、忽然として逝去されたのでした。
その後、ぼう大な原稿は十年余り著者のいない書斎に眠っていたのですが、勝手に持ち出して利用する人もいたそうで、散逸を恐れた同好の方々の努力により「中仙道板鼻宿」と名を改めて昭和47年4月15日に発行されました。

板鼻宿碑
 「中仙道板鼻宿」の著者
 川島一郎先生顕彰の碑
 現在は板鼻公民館の入り口にあります。
 碑の揮毫は作家の海音寺潮五郎氏です。

川島一郎先生の偉業と出版にかかわった多くの方々のご尽力に深く感謝して、記憶にとどめたいと思います。

(参考書籍:中山道板鼻宿・板鼻昔物語
  


2010年07月13日

板鼻宿さんぽ ♪

板鼻2丁目あたりを散歩して
碓氷川の堤防に出ようと、、
細い路地に入って長伝寺
方へ歩いていくと、民家の脇に
『荒木寅三郎生誕地』という
石碑がありました。

         
 荒木寅三郎といえば、戦前は碓氷・
 安中の小学校には立身出世した
 代表的人物として、揮毫(きごう/
 毛筆で書かれた言葉)が掲げられて
 いたそうです。  「培根(根を育てる)」→


荒木寅三郎

 慶応2年(1866年)板鼻の医者の家に
 生まれ、東京帝国大学医学部を卒業。
 ドイツに留学し学位を授けられて帰国
 しました。帰国後、京都帝国大学医学
 部教授、京都帝国大学 第7代総長
 (現・京都大学)、学習院 第15代院長
 などを歴任し、枢密院(すうみついん)
 顧問官に任命されました。
 医学の研究は多方面にわたり、代表的なものは志賀潔 発見の
 赤痢菌と異なる2種の菌を発見し、日本の生化学の先駆者と称
 されています。昭和17年1月28日没(75歳)。
                    (参考:安中ふるさと人物辞典)

荒木寅三郎の墓地 (安中市指定史跡)
  安中市板鼻378
 龍的塚(りゅうてきづか)古墳 の上にあります。

 お墓の場所はこちらです。 
  


2010年04月23日

美と芸のルーツ ♪

◆竹本素行(1860~1930)
明治時代に活躍した女義太夫の名人。
松井田町新堀の生まれ本名「市川みか」
15歳で上京し、女義太夫で身を立てるべく
芸に打ち込み、スターの座に登りつめた。
当時の青年たちを夢中にさせたアイドル的存在だった。

林きむ子(1884~1967)
竹本素行の長女。九条武子、柳原白蓮と並ぶ
「大正三美人」と称された。
富豪代議士夫人であり、美顔水の考案者、
そして舞踊界の革新者でもあり、波乱に富んだ人生を送った。
きむ子さんの言葉…「女の敵は男でも他人でもなく、自分の内面のしがらみである」

藤田まこと(1933~2010)
俳優、コメディアン。必殺シリーズが人気だった。
林きむ子の兄、俳優の藤田林太郎の息子。竹本素行は祖母。

ちなみに、、、
ビートたけしの祖母である北野うしは、竹本八重子という娘義太夫であったそうな・・・。