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2017年08月23日
続・安中は井伊家ゆかりの地 北野寺と威徳神社♪
NHK大河ドラマ「おんな城主直虎」で注目される井伊一族。
安中市も井伊家ゆかりの地です。
井伊直政(幼名 虎松)は、直虎が後見人をつとめて育て、後に徳川四天王の一人として活躍し、上野国箕輪城主(12万石)となりました。
井伊直政の子は二人いました。長男は正室の子であり、後に初代安中藩主となった直継(後の直勝)。次男は後に彦根2代藩主となった弁之助(後の直孝)で、異母兄の直継と同じ天正18年(1590)に駿河で生まれました。

△北野寺の山門 山門額は「威徳山」

△北野寺本堂と薬師堂
真言宗豊山派 威徳山 吉祥院 北野寺は永和元年(1375)慶秀僧正の開山と伝えられています。
正室の東梅院に配慮して、弁之助は文禄3年(1594)中後閑村の庄屋・萩原図書(ずしょ)を養育係とし、学問を北野寺の僧正 恵算が教えることになり、北野寺に預けられました。萩原図書は元は武家で、優れた人物であったようです。

△薬師堂
萩原図書の屋敷から北野寺までは距離があったので、弁之助は寺内の薬師堂に住んでいたと伝えられ、北野寺には弁之助が使用していたとされる硯箱があります。
弁之助は学問の合い間に戦ごっこをしたり、百姓の飼い馬を乗り回して乗り捨て、百姓を困らせたと伝えられています。
弁之助は後に井伊直孝として彦根2代目藩主となり、北野寺には藩主からの70点以上の書状(市指定重要文化財)が遺されています。

△扁額の「瑠璃光」とは、「薬師瑠璃光如来」のこと。
薬師堂は 安永8年(1779)焼失。その後、天保元年(1830)井伊直中(11代)により再建されたとのことです。
「雨漏り、害獣被害、経年劣化により薬師堂の屋根に穴が開いてしまったので修繕が必要で、屋根は本堂のように銅板にしたいので寄進をお願いいたします。」という内容の手書きのお知らせが貼ってありました。

△威徳神社
檜と杉の大木に囲まれた北野寺に隣接する威徳神社です。
井伊直孝が寛永3年(1626)に造営しました。

直孝が立身出世の大願をかけ、杉と檜を社殿の前の両脇に植え、御神木とされました。また、大坂の陣の際、祈願してから出陣し田柄を立てたので「出身天神」といわれています。

振り返ると、弁之助が暮らした頃と変わらないひなびた風景がありました。
※ 前記事「安中は井伊家ゆかりの地」はこちら
≪参考≫
・広報あんなか 「学習の森だより №135」
・学習の森ふるさと学習館第17回企画展『井伊家と安中』冊子
◆北野寺 安中市下後閑1,249
安中市も井伊家ゆかりの地です。
井伊直政(幼名 虎松)は、直虎が後見人をつとめて育て、後に徳川四天王の一人として活躍し、上野国箕輪城主(12万石)となりました。
井伊直政の子は二人いました。長男は正室の子であり、後に初代安中藩主となった直継(後の直勝)。次男は後に彦根2代藩主となった弁之助(後の直孝)で、異母兄の直継と同じ天正18年(1590)に駿河で生まれました。

△北野寺の山門 山門額は「威徳山」

△北野寺本堂と薬師堂
真言宗豊山派 威徳山 吉祥院 北野寺は永和元年(1375)慶秀僧正の開山と伝えられています。
正室の東梅院に配慮して、弁之助は文禄3年(1594)中後閑村の庄屋・萩原図書(ずしょ)を養育係とし、学問を北野寺の僧正 恵算が教えることになり、北野寺に預けられました。萩原図書は元は武家で、優れた人物であったようです。

△薬師堂
萩原図書の屋敷から北野寺までは距離があったので、弁之助は寺内の薬師堂に住んでいたと伝えられ、北野寺には弁之助が使用していたとされる硯箱があります。
弁之助は学問の合い間に戦ごっこをしたり、百姓の飼い馬を乗り回して乗り捨て、百姓を困らせたと伝えられています。
弁之助は後に井伊直孝として彦根2代目藩主となり、北野寺には藩主からの70点以上の書状(市指定重要文化財)が遺されています。

△扁額の「瑠璃光」とは、「薬師瑠璃光如来」のこと。
薬師堂は 安永8年(1779)焼失。その後、天保元年(1830)井伊直中(11代)により再建されたとのことです。
「雨漏り、害獣被害、経年劣化により薬師堂の屋根に穴が開いてしまったので修繕が必要で、屋根は本堂のように銅板にしたいので寄進をお願いいたします。」という内容の手書きのお知らせが貼ってありました。

△威徳神社
檜と杉の大木に囲まれた北野寺に隣接する威徳神社です。
井伊直孝が寛永3年(1626)に造営しました。

直孝が立身出世の大願をかけ、杉と檜を社殿の前の両脇に植え、御神木とされました。また、大坂の陣の際、祈願してから出陣し田柄を立てたので「出身天神」といわれています。

振り返ると、弁之助が暮らした頃と変わらないひなびた風景がありました。
※ 前記事「安中は井伊家ゆかりの地」はこちら
≪参考≫
・広報あんなか 「学習の森だより №135」
・学習の森ふるさと学習館第17回企画展『井伊家と安中』冊子
◆北野寺 安中市下後閑1,249
2017年07月22日
安中は井伊家ゆかりの地♪

(学習の森ふるさと学習館 講演会資料より)
NHK大河ドラマ「おんな城主直虎」で注目される井伊一族。井伊直政(幼名 虎松)は、慶長6年(1601)関ヶ原の戦いの武功により佐和山藩(滋賀県彦根市)18万石を与えられましたが、その後鉄砲傷が悪化し、慶長7年(1602)42歳で死去しました。
直政には同じ年の2人の子がいましたが、家督を継いだ政継(正室の子)は多病であり、また、家臣の争いを収めきれず、「押込め」になったという記録があるそうです。 そのため、彦根藩では直継を数えず、初代を直政、2代を直孝、直継は別家の初代とされました。
徳川家康は、慶長12年の大坂冬の陣には弟の直孝(側室の子)に出陣を命じ、大坂夏の陣で武功を挙げた直孝は彦根藩主となり近江15万石を相続しました。
直継は初代安中藩主(3万石)となり、名を直勝と改め、母の東(唐)梅院と共に145人の家臣を引き連れて安中に移り、町並みの整備や、碓氷関所(中山道)と杢(牧)関所(現渋川市・三国街道)の守護に当たりました。
安中市の大泉寺には、井伊直政正室の墓と、安中藩2代藩主井伊直好生母の墓が残されています。(安中市指定史跡)
※続きはこちら
≪参考≫
・広報あんなか 「学習の森だより №134」
・学習の森ふるさと学習館第17回企画展『井伊家と安中』冊子
2017年07月05日
塩原太助の玉垣と石燈籠♪
榛名神社の参道を上って行くと、売店のはす向かいに塩原太助が寄進した玉垣があります。
上毛かるたでは「ぬ:沼田城下の塩原太助」になっていますが、塩原太助は1743(寛保3)年、上野国利根郡新治村(現みなかみ町)に生まれているので、なぜ沼田?と不思議でしたが・・・・・・
群馬県発行のガイドマップに「江戸時代中ごろ沼田城下だった現在のみなかみ町の農家に生まれました。」とあり、納得しました。

(2014年5月撮影)
看板には
「塩原太助奉納玉垣
文化5年建立(昭和60年より約180年前)
塩原太助江戸へ出る時 当社に祈願を込め
成功するや 御礼の為 崇敬者をさそひ
奉納せられしもの」 とあります。
18歳の頃江戸に出た太助は、仕事も見つからず困っていたところを神田佐久間町の炭問屋・山口屋善右衛門に助けられ、住み込みで働けるようになりました。この恩に感謝して誠実に働き、本所相生町(両国)に店を出し、やがて成功し資産家となりましたが、道路改修や治水事業に私財を投じ、貧しい人や弱い人の救済を続けました。

江戸本所
奉獻 鹽 原 屋 太 助 と読めます。
『江戸切絵図』で、塩原太助の店が載っていないだろうかと探してみましたが、手元の絵図では武家地ばかり。ようやくグーグル地図で、「塩原太助炭屋跡」の文字を見つけました。

両国の南側に流れる竪川(たてかわ)には、本所相生町に住んでいた塩原太助に因んで名付けられた「塩原橋」が架かっていいます。
太助が地元の人々に親しまれていたことがうかがわれます。

(古い写真なので、案内看板がありません)
また、榛名町方面から榛名湖に向かうと、天神峠に立派な石燈籠があります。
天神峠の石燈籠は榛名湖を望む天神峠の頂上に建てられています。文化12年(1815)に江戸本所の豪商塩原太助が寄進したとされ、高さ7メートル以上もあり、天神峠の絶景にふさわしい雄大なものです。本来は別の場所にあったが昭和57年(1982)に現在の場所に移設されています。塩原太助は、この石燈籠のほかにも榛名神社に数個の寄進を行っています。(高崎市ホームページより)
榛名神社に参拝してから江戸へ向かlった太助にとって、夜道は暗くどんなに心細かったことか・・・、立派な常夜灯は、峠を越える人々の道標になったことでしょう。
◇天神峠の石燈籠
≪参考≫
サイト:落語「塩原多助一代記」の舞台を歩く
上毛かるたでは「ぬ:沼田城下の塩原太助」になっていますが、塩原太助は1743(寛保3)年、上野国利根郡新治村(現みなかみ町)に生まれているので、なぜ沼田?と不思議でしたが・・・・・・
群馬県発行のガイドマップに「江戸時代中ごろ沼田城下だった現在のみなかみ町の農家に生まれました。」とあり、納得しました。

(2014年5月撮影)
看板には
「塩原太助奉納玉垣
文化5年建立(昭和60年より約180年前)
塩原太助江戸へ出る時 当社に祈願を込め
成功するや 御礼の為 崇敬者をさそひ
奉納せられしもの」 とあります。
18歳の頃江戸に出た太助は、仕事も見つからず困っていたところを神田佐久間町の炭問屋・山口屋善右衛門に助けられ、住み込みで働けるようになりました。この恩に感謝して誠実に働き、本所相生町(両国)に店を出し、やがて成功し資産家となりましたが、道路改修や治水事業に私財を投じ、貧しい人や弱い人の救済を続けました。

江戸本所
奉獻 鹽 原 屋 太 助 と読めます。
『江戸切絵図』で、塩原太助の店が載っていないだろうかと探してみましたが、手元の絵図では武家地ばかり。ようやくグーグル地図で、「塩原太助炭屋跡」の文字を見つけました。

両国の南側に流れる竪川(たてかわ)には、本所相生町に住んでいた塩原太助に因んで名付けられた「塩原橋」が架かっていいます。
太助が地元の人々に親しまれていたことがうかがわれます。

(古い写真なので、案内看板がありません)
また、榛名町方面から榛名湖に向かうと、天神峠に立派な石燈籠があります。
天神峠の石燈籠は榛名湖を望む天神峠の頂上に建てられています。文化12年(1815)に江戸本所の豪商塩原太助が寄進したとされ、高さ7メートル以上もあり、天神峠の絶景にふさわしい雄大なものです。本来は別の場所にあったが昭和57年(1982)に現在の場所に移設されています。塩原太助は、この石燈籠のほかにも榛名神社に数個の寄進を行っています。(高崎市ホームページより)
榛名神社に参拝してから江戸へ向かlった太助にとって、夜道は暗くどんなに心細かったことか・・・、立派な常夜灯は、峠を越える人々の道標になったことでしょう。
◇天神峠の石燈籠
≪参考≫
サイト:落語「塩原多助一代記」の舞台を歩く
2017年01月25日
安中の簗瀬二子塚古墳♪


△簗瀬二子塚古墳入口
簗瀬二子塚(やなせふたごづか)古墳は小森谷家(土地所有者)によって保存され、長い間元の姿を残してきました。その後公有地化され、保存整備事業が終了し、公開されたのは2015年7月です。(撮影:2016/6/27)

道路を隔ててガイダンス棟があり

簗瀬二子塚古墳に関する解説パネルが展示されています。
簗瀬二子塚古墳(平成24年安中市指定史跡)は、安中市域に初めて登場した大型前方後円墳で、古墳時代後期初頭(6世紀初頭)に築造されたと考えられ、この地域一帯を支配した有力者の墓と推測されます。
また古墳の埋葬部分は横穴式の石室が作られています。この横穴式石室は、上野地域さらには東国において、石室が竪穴式から横穴式へと移る最初の頃のものと考えられ、学術的にも重要な古墳です。
2段構造の前方後円墳で全長約80メートル、後円部径約50メートル・高さ約8メートル、前方部幅約60メートル・高さ約7メートル、上野地域の古墳時代後期初頭(6世紀初頭)最大級の古墳です。


【出土品】
円筒埴輪・形象埴輪(人物や馬・埴輪列)、玉類(金箔ガラスの3連子玉・勾玉・水晶製丸玉など)、装身具(金銅製耳輪など)、石製模造品(鎌・刀子・斧・臼玉など)、武器類(鉄やじり・直刀・鉄小札)、馬具(杏葉・辻・金具など)、須恵器など。
小森谷家所蔵の出土品は、平成24年、安中市指定重要文化財に指定されました。

△石室内部
全長11.54メートル義道長7.47メートル(幅0.67メートル~0.95メートル)、玄室長4.07メートル(幅2.16メートル~2.32メートル)高さ2.20メートル。
天井石には秋間石(溶結石室凝灰岩)が使用され、近くの碓氷川の川原石を使用している壁石には赤色顔料(ベンガラ)が塗彩されています。(リーフレットより)

石室入口前には石室展開写真が展示されています。

墳丘の形を変えることなく全体に盛り土を行う方法を用いて、古墳の保護を目的とした整備が行われたそうです。

後円部頂には石祠と歌碑(小森谷啓作氏建立)があります。
【銘文】
布多古塚碑
さきつとし、小森谷柳造はこの山のすそを新墾
して、ひとつの岩むろを見出し、まか玉のたくひあまた
掘えたり。そもそも此あたりをむかしよりふたこつかと
いひつたえ来ぬれと、其ゆえよしをしることのなし。
つかはあれと、千歳のいにしへよしある人の遺跡
なる事ハ、今あらはれ出し玉の光にていちしるし
といふへし
あらかねの上にうもれし玉さへも
あらわれいつる君かミよかな
明治十九年丙戌一月
正四位勲三等黒田清綱
※清綱は洋画家・黒田清輝の養父

広々とした園内を散策したあとは、あずまやでひと休み。。。
古墳の西側に、「簗瀬八幡平の首塚」(安中市指定史跡)が隣接していることを知りました。

簗瀬八幡平の首塚(安中市指定史跡)は、元々6世紀後半の横穴式石室を主体部とする円墳でしたが、昭和6年に近くの小学生により古墳(原市12剛墳)中に多数の人お頭骨が埋められているのが発見され、その後昭和27年の東京大学人類学教室の鈴木尚教授の発掘調査により、古墳の石室の外側に穴を掘り、人骨(ほとんど上顎以上の頭骨)を埋めたことがわかりました。頭骨は150体分以上あり、性別の判明する38体の内訳は、男27、女7、幼い子ども4であることがわかりました。骨は天明3年(1783)の火山灰層の下にあり、頭骨の特徴から中世(鎌倉時代~室町時代)の骨であることがわかりました。
また、平成9年の発掘調査で、古墳の南面に板碑(いたび)7基が確認され、その内の1つに「建武4年」(1337)の銘があり、そのころに建立されたと考えられます。(安中市ホームページより)
安中市学習の森では
安中市合併10周年記念・保存整備事業完了記念企画展
「簗瀬二子塚古墳の世界」が
1月30日(月)まで開催されています。
簗瀬二子塚古墳は6世紀初頭に碓氷川沿いに造営され、東国においてもっとも早く横穴式石室を導入した古墳のひとつです。この古墳は明治12年に石室が発見され、石室から出土した副葬品は、古墳の所有者である小森谷家によって大切に守られてきました。
今回の企画展では簗瀬二子塚古墳に関係する史料や遺物の紹介を通して、本古墳の価値を広く知って頂くとともに、小森谷家にのこる明治維新期の貴重な資料をあわせて展示いたします。(企画展ポスターより)
◆簗瀬二子塚古墳の場所
2016年08月25日
中之条町の市城砦 ♪

渋川から353号線を中之条に向けて走っていたとき、
小野上温泉を通過した先の崖の上に、チラリと六文銭
が見えました。 4/8

大河ドラマ「真田丸」人気で、こんなところにも六文銭?
と、停車して見ると・・・
「市城砦南部郭の出丸跡」という案内板に、砦の詳細な
解説がありました。

かつて渋川市村上に岩井堂砦(城)があり、市城砦は
その支城だったようです。

狭く急な坂道を這うようにして登ると、黒澤明監督の
映画を思い起こさせてくれるような、柵をめぐらした
手造り感いっぱいの櫓がありました。

眼下には吾妻川が流れ、武田・北条・真田の争奪と攻防に明け暮
れた戦国時代の雰囲気を味わうことができます。

どうやら土地を所有する方が個人で復元されたようです。

櫓には「危険なので櫓に登らないように」との注意書きがあります。

完成したばかりのような砦跡でしたが、交通量が多く
駐車場もないので、見学はくれぐれもご注意ください。
2016年08月17日
下里見町の「ぴんころ地蔵尊」♪

下里見の信号脇にある看板です。
錫杖が“串だんご”のように見えます^^。2016. 2.8

参道の左右に並ぶ歌碑を詠みながら坂を上り

鋭い目つきの狐さんにも挨拶して・・・

里見城址の東、鬼門にあるのが城山稲荷神社です。

本堂内部はこんな感じ。。。

左手の長寿地蔵尊にピンピンコロリをお願いします。

△ぴんころ地蔵尊(長寿地蔵尊)
ピンピンコロリとは、健康長寿で亡くなる直前まで元気に活動し、
寝込まず楽に大往生したいという意味だそうですが、つまり心
筋梗塞などの心臓疾患による突然死のこと?
男女とも長寿日本一の長野県(2003年のデータ)には、県内でも
有数の長寿を誇る佐久市。薬師寺境内に、「ぴんころ地蔵」が建立
されているそうです。
※信州 佐久市のぴんころ地蔵尊はこちら
◆城山稲荷神社
2015年10月05日
安中の芭蕉句碑(続)♪

国道18号 原市の信号から北に向かう路地を行くと、左側に原市
教会の塔が見えます。 9/11

△原市教会
明治19年(1886) に原市、後閑、磯部の安中教会員
97名の信徒が分離、独立して創立した原市教会です。
(参考:原市教会ホームページ)

教会と背中合わせに原市赤心幼稚園があり、こども
達の元気な声が聞こえてきます。
「赤心」とは天真爛漫さにあふれる心のことだそうで、
開園してから110年という歴史ある幼稚園です。
(参考:赤心幼稚園ホームページ)

教会を通過して、ひたすらまっすぐの道の先に

久昌(きゅうしょう)寺があります。
以前、中山道を紹介したサイトに”久昌寺に芭蕉句碑がある”と
いう記述を見たことがあり・・・

境内を歩いてみましたが、芭蕉句碑らしき石碑は見当たりません。
そこで、道路を隔てた墓域を探索。。。

△榎下城主安中伊賀守忠清の墓
この墓は誰が建立したものか、はっきりしたことは
わからないようです。
この辺りは榎下(えげ)城址だそうで、ここも一度は訪れ
たいと思っていた場所でしたが、またまた偶然 遭遇し
てしまいました。
榎下城(別名/鶴巻城)は大永5年(1525)松井田小屋
城よりこの地に来た安中伊賀守忠清が築き、忠清の子
忠政が永禄2年(1559)安中城を築いて移るまで、安中
氏の拠点だったそうです。

△久昌寺の墓地にある芭蕉句碑(?)
石碑の正面には戒名と明治四年未七月の建立とあり、
墓石のようですが、裏面になにやら句が刻まれていま
す。冒頭は「辞世」と読めそうですが、左下方に「松尾
翁」の文字。途切れ途切れに読める文字では、残念な
がら全体の意味がつかめませんでした。
松尾芭蕉最後の句は
「旅に病んで夢は枯野をかけ廻る」 ですが、違うみたい。
そもそも、安中の芭蕉句碑に興味を待つことになるきっ
かけを作ってくれたのがこちら▽です。
◆足跡を一つ二つ・・・歩いて行くと残ります・・・芭蕉句碑
句碑の画像をお借りしました。

△板鼻・鷹巣神社跡地の芭蕉句碑
馬をさえ詠(ながむ)る雪のあしたかな
貞享元年(1684)作 『野ざらし紀行』
(予期せぬ雪の朝、一面の白銀の世界では、いつもは
見慣れた馬の過ぎ行く姿も新鮮なものとして目に入ってくる。)
◆参考:伊藤洋のページ/芭蕉DB
☆芭蕉句碑の記事はこちらにも
久昌寺 安中市原市2989
2015年09月25日
安中の芭蕉句碑♪
芭蕉は一度も上州に来ていないという定説があるらしいのですが、
『更科紀行』のルートによると、芭蕉は貞享5年(1688年/芭蕉45歳)
8月に、信濃国更科で姨捨山の名月を眺めたのち善光寺に参拝し、
中山道・碓氷峠を経て江戸へ帰っています。
ということで、滞在はしていませんが上州路を通ったことは間違い
ないようです。
参考サイト:「芭蕉と伊賀」 http://www.ict.ne.jp/


△旧中山道にある芭蕉句碑 (安中市指定重要文化財)
安中市松井田町坂本
ひとつ脱てうしろに負ひぬ衣かへ
貞享5年(1688)の作 『 笈の小文』にある句
元は寛政2(1790)年に刎石山中腹の「覗き」に建立されましたが、
中山道が廃道となったために現在地に移転されました。坂本宿の
俳人連グループ「竹睡庵連」の建立によるもので、選句、筆者は初
代春秋庵白雄です。この句碑は当時の宿駅文化の盛況さを偲ぶ
良き資料の一つです。 (引用:安中市HP 「安中市の文化財」)
他にも安中市に残る芭蕉句碑があるらしいのですが、まずは
原市の城山稲荷神社へ探しに出かけました。

△原市のスーパー駐車場
敷地の南端には旧碓氷社本社事務所があります。
駐車場から5分ほど歩くと、いかにも神社の杜らしき木立
が見え・・・近づいてみると、なんと「簗瀬城址」の看板が!

以前から気になっていた簗瀬城址(16世紀/戦国時
代 別称/原市城・稲荷城)はここだったのです。
安中氏の出張城であったと伝えられ
「城山」と称す。 『安中志』によれば
建治元年(1275)4月の頃に安中氏
の祖、二位中納言惟基が築城し、応
永6年(1399)三四世の後の重国の時に越後国へ移った
とする。 (咲前神社ホームページより引用)

△看板の右手には堀あと らしい通路もあります。

後日 南側の橋から見ると、簗瀬城は碓氷川を望む
断崖上にあったことが確認できました。
※マンションの左側が稲荷神社。

石垣に沿ってぐるりと回ってから

正面石段を上って境内へ

△城山稲荷神社


△ちょいと怖い表情の狐さん

△芭蕉句碑 9/11
境内の左手に、高さ2mほどの立派な芭蕉句碑が
ありました。
背面と側面にはびっしりと寄進した人の名が刻まれて
いますが、残念ながら建立年月が見当たりません。
此のあたり 眼に見ゆるもの 皆すゝし
貞享5年(1688) 旅の帰路、岐阜で詠んだ句
現代は俳句ですが江戸時代には俳諧と呼ばれ、芭蕉の
活躍などにより作句は広く庶民の間で流行しました。
全国に松尾芭蕉の句碑は3200基ほどあるそうですが、
群馬県は220基で全国第2位!
第1位は長野県で319基。(数字は諸説あるようです)
芭蕉句碑は都市部のみならず、地方にも広く分布して
います。
江戸時代中期から後期にかけて、養蚕を中心とした産業が
盛んだった上州は、関東有数の俳諧王国だったと言われて
います。
当時地方では芭蕉を敬慕する門人達が師の訪問を待ち構え
ていて、訪問先では句会が催され、盛大なもてなしを受けた
そうです。
芭蕉は上州に滞在したことがないのにこんなに沢山の句碑
が残されていることから、いかに庶民の間で俳諧が浸透し、
芭蕉の到来を待ち焦がれた人々がいたか・・・を想像してし
まいます^^。
≫≫続きはこちらに
<参考>
◆伊藤洋のページ
http://www2.yamanashi-ken.ac.jp/~itoyo/itoyo.html
◆蝶と里山の浪漫紀行
http://tyokyojin.sakura.ne.jp/romankiko.html
◆『石に刻まれた芭蕉』 弘中孝 著
◆城山稲荷神社
『更科紀行』のルートによると、芭蕉は貞享5年(1688年/芭蕉45歳)
8月に、信濃国更科で姨捨山の名月を眺めたのち善光寺に参拝し、
中山道・碓氷峠を経て江戸へ帰っています。
ということで、滞在はしていませんが上州路を通ったことは間違い
ないようです。
参考サイト:「芭蕉と伊賀」 http://www.ict.ne.jp/


△旧中山道にある芭蕉句碑 (安中市指定重要文化財)
安中市松井田町坂本
ひとつ脱てうしろに負ひぬ衣かへ
貞享5年(1688)の作 『 笈の小文』にある句
元は寛政2(1790)年に刎石山中腹の「覗き」に建立されましたが、
中山道が廃道となったために現在地に移転されました。坂本宿の
俳人連グループ「竹睡庵連」の建立によるもので、選句、筆者は初
代春秋庵白雄です。この句碑は当時の宿駅文化の盛況さを偲ぶ
良き資料の一つです。 (引用:安中市HP 「安中市の文化財」)
他にも安中市に残る芭蕉句碑があるらしいのですが、まずは
原市の城山稲荷神社へ探しに出かけました。

△原市のスーパー駐車場
敷地の南端には旧碓氷社本社事務所があります。
駐車場から5分ほど歩くと、いかにも神社の杜らしき木立
が見え・・・近づいてみると、なんと「簗瀬城址」の看板が!

以前から気になっていた簗瀬城址(16世紀/戦国時
代 別称/原市城・稲荷城)はここだったのです。

「城山」と称す。 『安中志』によれば
建治元年(1275)4月の頃に安中氏
の祖、二位中納言惟基が築城し、応
永6年(1399)三四世の後の重国の時に越後国へ移った
とする。 (咲前神社ホームページより引用)

△看板の右手には堀あと らしい通路もあります。

後日 南側の橋から見ると、簗瀬城は碓氷川を望む
断崖上にあったことが確認できました。
※マンションの左側が稲荷神社。

石垣に沿ってぐるりと回ってから

正面石段を上って境内へ

△城山稲荷神社


△ちょいと怖い表情の狐さん

△芭蕉句碑 9/11
境内の左手に、高さ2mほどの立派な芭蕉句碑が
ありました。
背面と側面にはびっしりと寄進した人の名が刻まれて
いますが、残念ながら建立年月が見当たりません。
此のあたり 眼に見ゆるもの 皆すゝし
貞享5年(1688) 旅の帰路、岐阜で詠んだ句
現代は俳句ですが江戸時代には俳諧と呼ばれ、芭蕉の
活躍などにより作句は広く庶民の間で流行しました。
全国に松尾芭蕉の句碑は3200基ほどあるそうですが、
群馬県は220基で全国第2位!
第1位は長野県で319基。(数字は諸説あるようです)
芭蕉句碑は都市部のみならず、地方にも広く分布して
います。
江戸時代中期から後期にかけて、養蚕を中心とした産業が
盛んだった上州は、関東有数の俳諧王国だったと言われて
います。
当時地方では芭蕉を敬慕する門人達が師の訪問を待ち構え
ていて、訪問先では句会が催され、盛大なもてなしを受けた
そうです。
芭蕉は上州に滞在したことがないのにこんなに沢山の句碑
が残されていることから、いかに庶民の間で俳諧が浸透し、
芭蕉の到来を待ち焦がれた人々がいたか・・・を想像してし
まいます^^。
≫≫続きはこちらに
<参考>
◆伊藤洋のページ
http://www2.yamanashi-ken.ac.jp/~itoyo/itoyo.html
◆蝶と里山の浪漫紀行
http://tyokyojin.sakura.ne.jp/romankiko.html
◆『石に刻まれた芭蕉』 弘中孝 著
◆城山稲荷神社
2014年09月07日
吉井町の馬庭念流道場 ♪
以前から気になっていた高崎市吉井町の馬庭念流道場を訪ね
てみました。 8/25

サンコー72カントリークラブ前を通過。岩崎の信号を
左折して少し行くと馬庭念流道場の表示があります。

住宅地に向かって平たんな道を行き

せまい道路を表示板に誘導されて進むと、住宅地の奥に
馬庭念流道場がありました。

△馬道庭念流道場 (個人のお宅なので見学者用の駐車場はないようです)

△馬庭念流道場及び関係文書は群馬県指定史跡 (クリックで拡大)

△門の左側が道場
兵法三大源流は「念流」「神道流」「陰流」と伝えられています
が、そのひとつ念流は奥州相馬(福島県南相馬市)の相馬四郎
義元(後に出家して念阿弥慈恩 観応元年/1350年生れ)を創始
者として、その弟子のひとりである樋口太郎兼重が上野国の郷
士として、念流の奥義を受け継いだ「樋口念流」を創始し、17代
定次が念流八世を継承してから「馬庭念流」と呼ばれ、当代25
世まで400年以上も続く土着の剣術流派です。
念阿弥慈恩(ねんあみじおん)は没年不肖で、なかば伝説上の人
物という説もあり、念流も多くの謎に包まれた流派とされているよ
うです。
大名に召抱えられることを目標に修業に励んだ剣法と違い、田を
耕しつつ先祖からの剣法を修業し、名声を求めず、昔のままの面
小手をつけ、袋竹刀で試合をし、その構えは「無構え」というヘッピ
リ腰ともいえるようなもので、昔、江戸の言葉に、剣術をヤットオと
云い、剣術使いをヤットオ使いと云ったものだが、馬庭念流のカケ
声は今でも昔のままヤットオである。
(坂口安吾全集「馬庭念流のこと」より)
幼い頃の記憶にある、警察の道場で見た剣道の練習風景や、剣
豪小説で出逢った剣豪(ヒーロー)や剣技のイメージとはまったく違
う剣術の存在は、また違う魅力にあふれています。
念流は剣を殺傷の道具ではなく、弱者である農民や一般の人々を
守るためのものとし、後手必勝の「護身の剣」で、体造りだけでも十
数年かかり、習得には二十年以上の年月が必要で、生涯にわたっ
て稽古する覚悟がなければ、この伝説の剣術を極めることはできな
いのそうです。 参考:『剣豪の流派』(宝島社)

建物の左奥に仏教の守護神である摩利支天宮があり

石灯籠の竿部分には「文久三亥年」の文字が見えます。

母屋のチャイムを鳴らしてみましたが、お留守のようでした。
△傚士(こうし)館の入り口

敷地内に史料館があり、関連文書が見られるようですが、
次回のおたのしみ♪
道場内部や年に一度の鏡開奉納試合の様子は
『ツトムさん家の写真日記』でどうぞ^^。
◆馬道庭念流道場 高崎市吉井町馬庭80
てみました。 8/25

サンコー72カントリークラブ前を通過。岩崎の信号を
左折して少し行くと馬庭念流道場の表示があります。

住宅地に向かって平たんな道を行き

せまい道路を表示板に誘導されて進むと、住宅地の奥に
馬庭念流道場がありました。

△馬道庭念流道場 (個人のお宅なので見学者用の駐車場はないようです)


△馬庭念流道場及び関係文書は群馬県指定史跡 (クリックで拡大)

△門の左側が道場
兵法三大源流は「念流」「神道流」「陰流」と伝えられています
が、そのひとつ念流は奥州相馬(福島県南相馬市)の相馬四郎
義元(後に出家して念阿弥慈恩 観応元年/1350年生れ)を創始
者として、その弟子のひとりである樋口太郎兼重が上野国の郷
士として、念流の奥義を受け継いだ「樋口念流」を創始し、17代
定次が念流八世を継承してから「馬庭念流」と呼ばれ、当代25
世まで400年以上も続く土着の剣術流派です。
念阿弥慈恩(ねんあみじおん)は没年不肖で、なかば伝説上の人
物という説もあり、念流も多くの謎に包まれた流派とされているよ
うです。
大名に召抱えられることを目標に修業に励んだ剣法と違い、田を
耕しつつ先祖からの剣法を修業し、名声を求めず、昔のままの面
小手をつけ、袋竹刀で試合をし、その構えは「無構え」というヘッピ
リ腰ともいえるようなもので、昔、江戸の言葉に、剣術をヤットオと
云い、剣術使いをヤットオ使いと云ったものだが、馬庭念流のカケ
声は今でも昔のままヤットオである。
(坂口安吾全集「馬庭念流のこと」より)
幼い頃の記憶にある、警察の道場で見た剣道の練習風景や、剣
豪小説で出逢った剣豪(ヒーロー)や剣技のイメージとはまったく違
う剣術の存在は、また違う魅力にあふれています。
念流は剣を殺傷の道具ではなく、弱者である農民や一般の人々を
守るためのものとし、後手必勝の「護身の剣」で、体造りだけでも十
数年かかり、習得には二十年以上の年月が必要で、生涯にわたっ
て稽古する覚悟がなければ、この伝説の剣術を極めることはできな
いのそうです。 参考:『剣豪の流派』(宝島社)

建物の左奥に仏教の守護神である摩利支天宮があり

石灯籠の竿部分には「文久三亥年」の文字が見えます。

母屋のチャイムを鳴らしてみましたが、お留守のようでした。

△傚士(こうし)館の入り口

敷地内に史料館があり、関連文書が見られるようですが、
次回のおたのしみ♪
道場内部や年に一度の鏡開奉納試合の様子は
『ツトムさん家の写真日記』でどうぞ^^。
◆馬道庭念流道場 高崎市吉井町馬庭80
2014年06月20日
安中市中宿の蓮華寺 ♪
中宿で忘れてはいけないのは蓮華寺と糸操り燈籠人形です。
「安中市ボランティア観光ガイドの会」の蓮華寺での勉強会で、
ご住職のお話が聞けて栄朝禅師木像の拝観ができるという
お知らせがあり、参加させていただきました。 6/5

蓮華寺は鎌倉時代前期 寛喜3年(1231)栄朝禅師の創建と伝え
られていますが、宝治元年(1247)創建との説もあります。
栄朝禅師が京都から鎌倉へ向かう途中、中宿まで来て日没とな
り、近くのお堂に泊まりましたが、夜更けに鳴動と共に庭の池の
中から美しい蓮の花が咲き出したことから、蓮華寺と称することに
なったと伝えられています。

いつもは閉まっている開山堂の戸が開けられていて、
撮影も快諾していただきました。

△栄朝禅師の木造解説 (クリックで拡大)
栄朝は永万元年(1165)上野国那波郡に生まれ、
臨済禅師栄西の弟子で、新田義季(よしすえ・徳川
氏開祖)に招かれて世良田(太田市)に長楽寺を開
いた名僧です。太田市長楽寺の開山堂にも栄朝禅師
の塑像が安置されているそうです。

高さ108cm、座高70.6cmの寄木造り。
袈裟にはわずかに金箔や絵の具が残り、目には玉眼
がはめ込まれ

鎌倉時代末期から室町時代の特徴が見られる肖像彫刻です。
(県指定重要文化財)
明治16年 中宿の大火で蓮華寺も類焼しましたが、その際に近くの
池に投げ込まれていた禅師像が偶然発見されたとか。

△境内の雉子(きじ)観音堂

約1200年も前、慈覚大師(円仁)がこの辺りを通ったとき、
白い雉子が現われたので、そこを覗きこむと正観音菩薩の
お姿がありました。そこで多羅の木で像をつくって岩屋の中
に祀り加持をしたところ、山頂から清水が湧き出したのが、
清水(せいすい)山の名前の由来だと伝えられています。
その岩山が東邦亜鉛安中製錬所西の岩戸山です。

△白い衣をまとった雉子観音

△清水山蓮華寺之景(大日本名蹟図誌)
明治34年に発行された銅版画です。諏訪神社が
同じ敷地内にあることがわかります。

△現在はこんな感じ

めりっとはうす(喫茶店)脇の道を東に向かい、柳瀬川に架かる
桐の木橋を渡ると、右手に蓮華寺の墓地があります。
中世の蓮華寺は碓氷川と柳瀬川が合流する地点より下流にあり、
館址だったそうですが、洪水により流失し、現在の場所に移転した
そうです。
墓地の敷地内に、栄朝禅師がこの場所に着いたとき一緒に旅を
してきた牛が動かなくなり、そのまま石に化したという伝説の牛石
(ねうし石・牛伏せ石)がありますが、今は夏草に埋もれてほとんど
見えません。

碓氷川と柳瀬川が合流する地点からは、板鼻の鷹ノ巣の断崖が
見えます。
中山道の宿場として栄えた板鼻とは異なりますが、中宿には歴史
と先人達が遺してくれた文化遺産と、それを継承し保存する人々の
熱い思いがあります^^。
≪参考資料≫
安中市ホームページ「安中市の文化財」
『わがまち中宿こんなまち』 / 中宿を元気にする会
『安中の伝説』 市川光一 著
◆天台宗清水山 蓮華寺
「安中市ボランティア観光ガイドの会」の蓮華寺での勉強会で、
ご住職のお話が聞けて栄朝禅師木像の拝観ができるという
お知らせがあり、参加させていただきました。 6/5

蓮華寺は鎌倉時代前期 寛喜3年(1231)栄朝禅師の創建と伝え
られていますが、宝治元年(1247)創建との説もあります。
栄朝禅師が京都から鎌倉へ向かう途中、中宿まで来て日没とな
り、近くのお堂に泊まりましたが、夜更けに鳴動と共に庭の池の
中から美しい蓮の花が咲き出したことから、蓮華寺と称することに
なったと伝えられています。

いつもは閉まっている開山堂の戸が開けられていて、
撮影も快諾していただきました。

△栄朝禅師の木造解説 (クリックで拡大)
栄朝は永万元年(1165)上野国那波郡に生まれ、
臨済禅師栄西の弟子で、新田義季(よしすえ・徳川
氏開祖)に招かれて世良田(太田市)に長楽寺を開
いた名僧です。太田市長楽寺の開山堂にも栄朝禅師
の塑像が安置されているそうです。

高さ108cm、座高70.6cmの寄木造り。
袈裟にはわずかに金箔や絵の具が残り、目には玉眼
がはめ込まれ

鎌倉時代末期から室町時代の特徴が見られる肖像彫刻です。
(県指定重要文化財)
明治16年 中宿の大火で蓮華寺も類焼しましたが、その際に近くの
池に投げ込まれていた禅師像が偶然発見されたとか。

△境内の雉子(きじ)観音堂

約1200年も前、慈覚大師(円仁)がこの辺りを通ったとき、
白い雉子が現われたので、そこを覗きこむと正観音菩薩の
お姿がありました。そこで多羅の木で像をつくって岩屋の中
に祀り加持をしたところ、山頂から清水が湧き出したのが、
清水(せいすい)山の名前の由来だと伝えられています。
その岩山が東邦亜鉛安中製錬所西の岩戸山です。

△白い衣をまとった雉子観音

△清水山蓮華寺之景(大日本名蹟図誌)
明治34年に発行された銅版画です。諏訪神社が
同じ敷地内にあることがわかります。

△現在はこんな感じ

めりっとはうす(喫茶店)脇の道を東に向かい、柳瀬川に架かる
桐の木橋を渡ると、右手に蓮華寺の墓地があります。
中世の蓮華寺は碓氷川と柳瀬川が合流する地点より下流にあり、
館址だったそうですが、洪水により流失し、現在の場所に移転した
そうです。
墓地の敷地内に、栄朝禅師がこの場所に着いたとき一緒に旅を
してきた牛が動かなくなり、そのまま石に化したという伝説の牛石
(ねうし石・牛伏せ石)がありますが、今は夏草に埋もれてほとんど
見えません。

碓氷川と柳瀬川が合流する地点からは、板鼻の鷹ノ巣の断崖が
見えます。
中山道の宿場として栄えた板鼻とは異なりますが、中宿には歴史
と先人達が遺してくれた文化遺産と、それを継承し保存する人々の
熱い思いがあります^^。
≪参考資料≫
安中市ホームページ「安中市の文化財」
『わがまち中宿こんなまち』 / 中宿を元気にする会
『安中の伝説』 市川光一 著
◆天台宗清水山 蓮華寺
2014年05月06日
「妙義・榛名道」を探して〈二軒茶屋〉 ♪
餅つき道祖神のある場所を知ったあとで、 妙義・榛名参詣道の
般若沢から二軒茶屋(現在は地名のみ)までを、歩いてみたくなり
ました。 3/29
妙義・榛名参詣道の開設年代は不明ですが、中世には妙義・榛
名への修験の道といわれ、江戸時代には道者(巡礼)道として知
られました。当時は道者を見ると子供達が「道者さん道者さん疋(ひ
き=お金)おくれ」と後を追ったものだ、と伝えられています。
また、中山道に対して横通り・脇往還と言われ、妙義神社・榛名
神社参りの人々の往来が盛んだったようです。
△バス停と恵宝沢の道標 脇の坂道が古道 妙義・榛名参詣道

信仰厚い参詣の人々も、この息切れするような坂道を
登ったのでしょう

少し開けた高台からは、はるかに秋間梅林が望めます。

道路脇には石詞が並んでいますが、個人の所有地なので近づく
ことはできません。

ようやく下りになり、分岐点にぽつんと道しるべらしきものがあり

近づいてみると馬頭観世音と彫られていました。
秋間地区内には、道ゆく人々の安全を願った13基の
道しるべが確認されているそうです。

分岐点を右に下り、車一台が通れるような道につき当ると、道路
脇に神社の参詣道で見かけるような石柱と

△右に下秋間の文字
小さな道標があり、飽馬神社への参道であることが
確認できました。
このあたりは二軒茶屋と名付けられ、天保時代には
田胡屋・松屋・沢潟屋という茶屋がありました。
名前は二軒ですが茶屋は三軒あったようです^^。
この先の風景はこちらです。
▽ クリックで拡大します

参考:『安中市誌』
秋間史跡保存会資料
般若沢から二軒茶屋(現在は地名のみ)までを、歩いてみたくなり
ました。 3/29
妙義・榛名参詣道の開設年代は不明ですが、中世には妙義・榛
名への修験の道といわれ、江戸時代には道者(巡礼)道として知
られました。当時は道者を見ると子供達が「道者さん道者さん疋(ひ
き=お金)おくれ」と後を追ったものだ、と伝えられています。
また、中山道に対して横通り・脇往還と言われ、妙義神社・榛名
神社参りの人々の往来が盛んだったようです。

△バス停と恵宝沢の道標 脇の坂道が古道 妙義・榛名参詣道

信仰厚い参詣の人々も、この息切れするような坂道を
登ったのでしょう


少し開けた高台からは、はるかに秋間梅林が望めます。

道路脇には石詞が並んでいますが、個人の所有地なので近づく
ことはできません。

ようやく下りになり、分岐点にぽつんと道しるべらしきものがあり

近づいてみると馬頭観世音と彫られていました。
秋間地区内には、道ゆく人々の安全を願った13基の
道しるべが確認されているそうです。

分岐点を右に下り、車一台が通れるような道につき当ると、道路
脇に神社の参詣道で見かけるような石柱と

△右に下秋間の文字
小さな道標があり、飽馬神社への参道であることが
確認できました。
このあたりは二軒茶屋と名付けられ、天保時代には
田胡屋・松屋・沢潟屋という茶屋がありました。
名前は二軒ですが茶屋は三軒あったようです^^。
この先の風景はこちらです。
▽ クリックで拡大します

参考:『安中市誌』
秋間史跡保存会資料
2014年05月02日
安中市/西上秋間の餅つき道祖神 ♪

△建物の左側が飽間神社
西上秋間の二軒茶屋付近に餅つき道祖神があるということを
群馬の伝説本で知ってから、どうしても見たくなり

△農道のような狭い道を左に入り
知人に場所を聞いたり、地図を描いてもらったり、秋間梅林方面に
出かける度に探しましたが、わからないまま数年が経ちました。

△道がカーブしたところ(三本辻)に ぽつんとあるのが道祖神
梅の花見もそろそろ終わりの頃、飽間神社にお参りしてから、近く
にいた農家の方にたずねると、すぐ目の前の梅畑にあることがわ
かりました。 3/28

西上秋間の二軒茶屋から飽間神社の参道を進んで行くと、三本
辻があります。ここに何やらわからない石碑があります。安山岩の
石の表面は長い間、雨や風にさらされて、はっきりと形はわかりま
せんがよく見ると、二つの人の姿が浮かんできます。
よく見定めると一人は杵(きね)を振り上げ、ひとりはこねどりをして
いるらしいことは、下に臼(うす)らしいものがあるのでわかります。
明らかに道祖神であることは間違いありません。
『安中・碓氷・群馬Ⅰの伝説』
市川光一 著(あかぎ出版)より引用
伝説では、ここ笠松村にはむかしは何軒も家がありました。
ある日、名主さんがこの村の石屋さんに道祖神を作るように注文し
たのですが、石屋さんは今までと違う道祖神を作ろうと考え、夜空
の満月をヒントに、男女が餅をつく像を彫ったのですが、見慣れな
い道祖神を見た村役人からも村人からもよく言われず冷遇され、石
屋さんはいやになって村を去ってしまいました。
その後、いつしか村もさびれ、畑は荒れてしまったそうな。。。

△約50×45cm
秋間史跡保存会の資料には 「双体神像(モチツキ道祖神)
文政八乙酉(きのととり)年 1825年 181年前 江戸後期
双体道祖神としては非常にめずらしいもので、おそらく五穀豊穣
もあわせて祈願したものと思われる」とありました。
風雨に晒されてなお、仲よくお餅をつき続ける二人の、素朴で優し
い姿に思わず笑みがこぼれてしまう、嬉しい出会いでした^^。
2014年01月29日
渋川市/ 「宮田のお不動様」 ♪

△不動寺入口の臨時駐車場
ほっとぐんま640で紹介されていた宮田山不動寺の「宮田不動
大祭」で、年に1度1日だけお不動様の御開帳がありました。1/28

かなり傷みが多く不安定で急な石段なので、正確に
数える余裕もありませんでしたが100段以上ありそう


祈祷受付所の奥は見上げるような岩山です。

石像は不動寺境内の洞窟に安置されているようですが、どうやら
本堂の奥らしいのでローソク代100円を納めてから列に並びます。

して、昔から地域の人々の信仰を集めていた
そうです。お姿は高さ166cm、腰廻り157cm
で人間とほぼ等身大。腰の部分で二分されて
いて、それぞれの円筒形の穴に、曼荼羅とい
ろは歌が書かれた紙片が納められていて、
石像と岩座に墨書された文字から、慶長3年(1251:鎌倉時代)に
新田氏一族の里見氏善(現在の高崎市里見の領主)が現世利益
(りやく)、仏法興隆を願って仏士に刻ませ、ここに祀ったものとわ
かりました。 この里見一族は安房の里見氏のルーツだとか。
石財は安中の天神山産の流紋岩質軽石凝灰岩を丸彫りしたもの
だそうですが、安中の天神山で岩石が採掘されていた?・・・初め
て知りました。【国指定重要文化財】 (画像クリックで拡大)

次々と参拝者が訪れるので、悪魔を降伏させ知恵と
長寿をさずけてくれるという不動明王とゆっくり向き合う
時間がないのが残念。。。

境内には宮田神社があり

県内最終の初詣ができることでも知られていて、露天でだるまさん
が売られています。

△宮田の石灯籠 【渋川市指定重要文化財】
室町時代中頃、嘉吉3年(1443)に造られた珍しい
四角型石灯籠。

はるかに利根川を望む穏やかな風景を楽しめます^^。
◆宮田不動尊 渋川市赤城町宮田
2014年01月11日
八幡八幡宮参道の大ケヤキ ♪

八幡大門通りの大鳥居を通過して
参道を八幡様に向かうと、
何度も通っているのに
なぜ気付かなかったのでしょう…
道路の左側に大木が見えました。

近づいてみると、狭い場所でかなり傾いた状態ですが

太い幹が洞(うろ)になっていて、胴回りは5~6mはありそうな大ケ
ヤキです。裏手には堰の流れがあり、解説板は見当たりません。
あとで調べると、八幡宮より南へ1キロにあったケヤキ並木の最後
の1本で、空洞化して皮だけで生きている長寿ケヤキだということ
がわかりました。

大ケヤキの先の道祖神や石塔、祠が並ぶ風景は見慣れていて

立派な御神燈が目立ちますが、近づいて見ると「燈」の
文字がなぜか金偏(かねへん)です。

これもあとでわかったのですが、その昔、源義家が奥州
征伐の折、八幡宮に祈願の燈明を上げようとしたところ
燭台が見当たらず、馬の鐙(あぶみ)を使ったことから
御神鐙となったのだそうです。
参考: 「八幡めぐり」/八幡地区まちづくり実行委員会発行

参道を行くと、建立1057年の歴史ある八幡八幡宮に到着します。
2014年01月06日
糸繭商人が寄進した唐金燈籠 ♪

△八幡八幡宮の唐銅(からかね)燈籠 【高崎市指定重要文化財】
八幡八幡宮に初詣に行ったとき、拝殿前にある立派な
一対の燈籠の台座に、たくさんの名前が刻まれている
ことに気付きました。


△右端に「発起 大願主 △安中上野尻 須藤保左エ門
茂木宗兵衛 男 安中傳馬町 油屋左五兵エ
横浜弁天通 野沢屋惣兵衛」 ※「衛」は簡略化されています。
とあります。


△来舶清国人寄附 △高崎の町名が見られます。
この一対の唐金燈籠は、横浜開港後、糸繭商人として大きな利益を得た野澤屋(茂木)惣兵衛(高崎 田町出身)が大願主となって諸国に寄附を募り、慶応三(1867)年に奉納されたものだそうです。
後に惣兵衛は高崎で茂木銀行支店(九蔵町)を経営し、郷土の経済発展にも貢献しました。茂木銀行と第二国立銀行は横浜銀行に、野澤屋は横浜松坂屋となりました。(伊勢佐木町の老舗デパートとして人気があった横浜松坂屋は2009年に閉店)
燈籠に刻まれた銘文は、高崎・横浜の糸繭商人を中心に、諸商人・養蚕人をはじめ、来舶清国商人や地元氏子、西毛・北毛地区の信仰者等から広く寄附を募っていて、近世における生絹生産地域高崎の商人たちの意気込みがうかがえる資料として高い価値を持っています。(高崎市ホームページ「高崎の文化財」より)
群馬県に現存する糸繭商人献納の燈籠は八幡八幡宮のほかに

榛名神社…「諸国 繭糸商人 諸商人 養蚕人の一連」の
文字

貫前神社(富岡市)…台座に横浜商人 不入屋、野沢屋
惣兵衛の名前

妙義神社…「養蚕倍盛、商売繁盛、諸国 糸繭商…」が
あります。
(参考:加部安左衛門/丸山不二夫著)
野沢屋(茂木)惣兵衛については
迷道院高崎さんの記事「惣兵衛の梅」でどうぞ♪
2013年02月08日
碓氷郡の宝 ♪
学習の森 第12回企画展「碓氷郡の神と仏」の展示を、学芸員の
佐野さんに解説をして頂きながら観ることができました。 1/30

鎌倉時代後期の阿弥陀三尊像▲ 【板鼻・聞名寺所蔵】

一遍上人の所持品と伝えられる袈裟▲ 【板鼻・聞名寺所蔵】
時宗の開祖といわれる一遍上人の笈(おい)は聞名寺で見たこと
がありますが、袈裟と直筆の六字名号(文字)も遺されています。

▲観世音菩薩坐像(大日如来坐像)室町時代
【富岡市・妙義神社所蔵】

▲摩利支天像(刺繍) 【江戸時代 原市・真下家所蔵】
戦国時代には武士の守護神として信仰を集めていたと
され、山本勘助も肌身はなさず持ち歩いていたとか。
大河ドラマではペンダント風の摩利支天を見ました。

▲百合若大臣の弓矢 【富岡市・妙義神社所蔵】
伝説の大男・百合若大臣が妙義山の岩山を射抜こうと、碓氷川を
跨いでふんばった足跡石と呼ばれる石が横川にあります。
足跡石は染太郎さんのブログで見られます。
→百合若大臣の足跡石

▲玄磧の大般若経
行田の行田山福寿庵の経蔵に納められている600巻の写経
まるで活字のように丁寧に書かれています。
以前、行田(おくなだ)を訪れたときの様子はこちらに

▲玄磧が使った筆・念珠・硯

▲病の身で写経を続け、最後は文字というより黒く塗りつぶしたよう
になっていて、すさまじい執念を感じます。
玄磧は600巻の写経成就の翌日に亡くなりました。
今回も素晴らしい展示でした。
都合により展示終了後の紹介になってしまったことが残念で、
口惜しい限りです。(展示は2月3日で終了しました)
ぜひ冊子『碓氷郡の神と仏』(学習の森ふるさと学習館/発行)
で、碓氷郡に遺された宝物をご覧ください。
佐野さんに解説をして頂きながら観ることができました。 1/30

鎌倉時代後期の阿弥陀三尊像▲ 【板鼻・聞名寺所蔵】

一遍上人の所持品と伝えられる袈裟▲ 【板鼻・聞名寺所蔵】
時宗の開祖といわれる一遍上人の笈(おい)は聞名寺で見たこと
がありますが、袈裟と直筆の六字名号(文字)も遺されています。

▲観世音菩薩坐像(大日如来坐像)室町時代
【富岡市・妙義神社所蔵】

▲摩利支天像(刺繍) 【江戸時代 原市・真下家所蔵】
戦国時代には武士の守護神として信仰を集めていたと
され、山本勘助も肌身はなさず持ち歩いていたとか。
大河ドラマではペンダント風の摩利支天を見ました。

▲百合若大臣の弓矢 【富岡市・妙義神社所蔵】
伝説の大男・百合若大臣が妙義山の岩山を射抜こうと、碓氷川を
跨いでふんばった足跡石と呼ばれる石が横川にあります。
足跡石は染太郎さんのブログで見られます。
→百合若大臣の足跡石

▲玄磧の大般若経
行田の行田山福寿庵の経蔵に納められている600巻の写経
まるで活字のように丁寧に書かれています。
以前、行田(おくなだ)を訪れたときの様子はこちらに

▲玄磧が使った筆・念珠・硯

▲病の身で写経を続け、最後は文字というより黒く塗りつぶしたよう
になっていて、すさまじい執念を感じます。
玄磧は600巻の写経成就の翌日に亡くなりました。
今回も素晴らしい展示でした。
都合により展示終了後の紹介になってしまったことが残念で、
口惜しい限りです。(展示は2月3日で終了しました)
ぜひ冊子『碓氷郡の神と仏』(学習の森ふるさと学習館/発行)
で、碓氷郡に遺された宝物をご覧ください。
2012年10月28日
中宿の糸操燈籠人形(山車飾り)制作風景⑤

扇子の持ち方も、不自然に見えないように何度も工夫して

裃を付けて胸元をきれいに…

四方から細かい部分をチェック


作り直した烏帽子を赤い紐で結び

背にはおめでたい絵柄の描かれた薄い和紙を
羽織って完成


無事にお役目を終えてほっとしている? 10/22
本来“三番叟”は翁(おきな)の舞いですが、
女の子のように可愛らしいのが糸操燈籠人形
らしさ…。

お祭り当日のうれしそうな表情♪
晴れがましい姿です^^。 10/20

付添いの方の操作で、腕を上下しています。

電線のある場所では人形の位置を低くして移動。。。
☆中宿祭りの様子はこちらに
http://gpnotebook.gunmablog.net/e259511.html
2012年10月27日
中宿の糸操燈籠人形(山車飾り)制作風景④

胴体の下に、膨らみをもたせるように針金で作った
太腿を作り

作業しやすいように吊るして、仕立て上がった
袴をはかせて

足を付け、調節します。

烏帽子の大きさを確認してみると、ちょっと大きい
ようです。結局作り直しになりましたが、数字のデ
ータは残っていても、実際に作ってみると不具合が
発生し、試行錯誤の連続です。 10/4

いよいよ着物を着せ、人形らしくなりました。10/11

この頃、近所の中宿公民館では、こども達のお囃し練習が

熱心に続けられていました^^。 10/11
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2012年10月26日
中宿の糸操燈籠人形(山車飾り)制作風景③

ロウソクの火で手際よく竹を曲げてカーブを作り、和紙を巻いて
(9/24)

肩と腕はこんな感じになります。 10/1

のっぺりしていた白い首にも

前に作った顔を参考にしてパーツが描かれていきます。

おだやかな優しい表情、瞳には光る星


板に打ち付けるとトントンとよい音が鳴る足もできました。

ちょっと緊張してますか?

こちらは髪の毛の準備です。

烏帽子作りは糸飾りがあり、思った以上に手が
かかります。

きれいな袖もでき上がりました^^。
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2012年09月29日
中宿の糸操燈籠人形(山車飾り)制作風景②

「顔ができたよ~」とにこやかに登場したのは、ダルマつくり
の専門家です。 9/10

ダルマつくりと同じ要領で和紙が貼られている
そうですが、前もって切れ目が入れられていて

皆で手伝ってはがします。

お祭り人形用の、何度も使われた木型が現わ
れました。

胴体部分はどんな感じかな・・・。 9/13

足の木型をつくっているのは彫刻の専門家。9/24

和紙を貼る人の意見を聞きながら、彫り進めます。

でき上がっている写実的な手も見せて頂きました^^。 9/24
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