群馬で出会った自然や季節の花、文化遺産、つぶやきなどを写真で綴ります。
< 2023年03月 >
S M T W T F S
      1 2 3 4
5 6 7 8 9 10 11
12 13 14 15 16 17 18
19 20 21 22 23 24 25
26 27 28 29 30 31  
Information

グンブロ広告

ビジネスライセンス料  3,000円/月

飲食関連事業用 ライセンス 毎日1セット広告  1,600円/月

お問い合わせは、 info@gunmawen.net

本広告は、30日以上記事の更新がされませんと自動的に掲載されます。 記事が更新された時点で、自動的に破棄されます。  

Posted by 株式会社 群馬webコミュニケーション at

2017年06月15日

碓氷馬車鉄道顕彰碑と「関所食堂」♪


 碓氷関所跡から碓氷峠方面に100mほど直進すると、
道路左に、「旧中山道 鉄道馬車路線」という目立たない
表示板があり、絵看板と顕彰碑があります。
  ▽



 △碓氷馬車鉄道由来

 太平洋と日本海を結ぶプロジェクト実現のために
 横川~軽井沢間は550mの高低差がある難路線で、
 多くの困難に遇いながら馬車鉄道を実現したことは
 日本鉄道史に残るものだと解説されています。
 

 △碓氷馬車鉄道顕彰碑 うすいの歴史を残す会


 △碓氷馬車鉄道のあゆみ

碓氷馬車鉄道(うすいばしゃてつどう)とは、かつて官営鉄道横川線(現、信越本線)の横川駅前から、碓氷峠を越えた直江津線(現、しなの鉄道線)の軽井沢駅との間を連絡していた馬車鉄道である。
横川駅 - 軽井沢駅間には碓氷峠という古くからの難所があり、この区間は直線距離にすると10kmにも関わらず標高差が552mもあるなど、鉄道にとっては非常に急勾配となるもので、工事も長期にわたっての難航が予想された。
そのため、暫定的に両駅間を馬車鉄道によって結び、東京 - 直江津間の連絡と碓氷峠の鉄道敷設に要する資材輸送手段を確保しようと考えられた。これにより、国道18号上に線路を敷設することで開業したのが「碓氷馬車鉄道」である。
旅客、貨物が好調で車両も増備したが、急勾配、急曲線のため線路や車輪の摩耗も激しく、馬匹も2頭引きの上、片道2回交代するなど経費がかかっていた。 
2年後の1890年(明治23年)には鉄道庁が碓氷線の建設を決定。
元々暫定的な鉄道であったため、1893年(明治26年)にアプト式ラックレールを採用して同区間の官営鉄道線が開通すると、開通僅か5年で廃線となった。廃止後一切の資材を群馬鉄道馬車に売却した。(Wikipedia) 

ということで、碓氷馬車鉄道の歴史を学んだ後で。。。
おや、気になる看板が見えますが、ここは以前から
友人に推薦されていた関所食堂です。


 満席で外に行列ができていることがあります。


 懐かしい昭和の香りが感じられる、知る人ぞ知る名店だそうで・・・
 

 カウンター3席 テーブル2卓 小上がり2卓。


 麺類もおいしいけど、一度で友人推薦チャーハンの
 ファンになってしまいました。
 (写真撮影許可を頂いたのは2016年2月19日)

 
  △関所食堂駐車場と営業時間 
   群馬県安中市松井田町横川553-3

お客さんは高齢者が多い感じですが、碓氷峠を越えて
きたらしいレザースーツのライダーが大型バイクの
エンジン音を響かせて走り去るのを眺めることもできます^^。
  


2013年08月15日

坂本宿あるき(2) ♪


 坂本宿の西端にある碓氷の郷の鎮守・坂本八幡宮。 
 創立年代はわかりませんが…       5/24撮影



 静かに佇む杉木立は、幕末、徳川家に降嫁する皇女
 和宮の大行列
を見守ったことでしょう。


 狛犬の足元には「享保八癸卯歳九月吉祥日」と刻まれ、
 290年も前から神社の守護・魔除け役を務めています。
 どこかで見たような…と思い出してみると、碓氷峠の熊野
 神社にあるものと似ているような感じ。。。


 上木戸脇に残る常夜燈の胴部分。道標として碓氷峠 
 からも灯りが見えたそうです。橋供養塔もあります。

 
 八幡宮の向かい側にある阿弥陀堂(清松寺)。建物がない
 ので目立ちませんが、馬頭観音や石造物、俳句碑があり、
 本陣・金井家の墓があります。
 

 △故大戸関所司加部翁と婦人の墓 
 ここにも加部安の墓があると聞き、再度訪ねました。
 大戸・加部家の人のようですが、金井家の養子になった
 幼い息子に同伴して、金井本陣の再興に努めたとか。


 宿の南側は坂本用水に沿って野菜畑が続き…


 鎌倉時代の開山で、中山道の整備により移転したという洞松寺
 あります。
  

 △血脈石塔(けちみゃくしゃくとう)
 信州小懸郡の石工の名が刻まれていました。


 △金井本陣跡
  「下の本陣」とも呼ばれ問屋(といや:荷物の受け継ぎ所)であり、
  360坪の敷地に間口10.5間(約19m)、建坪180坪の公家、大名、
  幕府の要人などが宿泊した権威ある旅籠。佐藤本陣と交代で本
  陣を勤めました。
  文久元年(1861)11月9日(旧暦)皇女和宮が宿泊しました。
  

 △脇本陣永井は家屋の傾きがみられ、現在大規模修繕中


 △下の木戸(坂本宿の江戸側の入口)
 明け六つ(午前6時)と暮れ六つ(午後6時)の間だけ
 木戸は開かれました。元の位置は50mほど東にあっ
 たそうです。 

 ≫坂本宿あるき(1)はこちらです^^。              


2013年05月28日

坂本宿あるき(1) ♪


 △「かぎや」さん                    5/24

 坂本公民館の「ふるさと塾」現地研修で、坂本宿あるきに参加。 
 いつもお世話になっている、公民館の小林さんが案内役です。
 中山道六十九次の内、江戸から17番目の坂本宿。
 寛永12年(1635)から参勤交代が始まると、碓氷峠の麓の坂本宿
 は繁栄しましたが、明治26年(1893)鉄道の開通により、宿場は
 急速に衰えてしまいました。


 △木曽街道六拾九次之内 坂本 (英泉 画)
 
 計画的に造られた坂本宿は、幅12.5mの道路が一直線に約700m
 続き、道の中央に幅1.2mの水路があり、水路には17箇所に石橋
 がかかっていました。


 △京都に近い方が上木戸。脇に高札場がありました。

 付近の集落を移住させたり、安中・高崎領からの移住者を加えて、
 整然と造成された宿場です。
 旅籠は大110 軒、中7 軒、小33 軒。その他、造酒屋・酒屋・風呂
 屋・茶屋など・・・往還の南側に79軒、北側に82軒。
 多くの職業があり、賑わっていました。
 宿内の人口は男409人、女413人 計822人。

  
 大名や身分の高い人が泊まった本陣は間口が14 間と
 10.5 間。その他は7 間、または3.5 間と決められていて、
 往還に面した建物はすべて二階造り。
 所々に細長~い通路が残っています。

  
 裏手には屋敷付きの畑が続き、整然と地割りされていま
 した。

 
 △斜交(はすかい)の家
 うしとらの方角を避けるため(鬼門よけ)に、道路に面して斜めに
 建てられた家が3軒ありますが、この写真ではわかり難いです^^;


 △街道の南側を流れる坂本用水 

 参考資料:坂本・入牧地区生涯学習資料
        中山道坂本宿

 ≫坂本宿あるき(2)はこちらです^^。   


2012年11月17日

藤塚町の一里塚 ♪

 高崎へ出かける車に便乗して途中下車。。。 
 中山道歩きのサイトで見て場所がわからなかった、高崎宿と
 板鼻宿の中間にある藤塚の一里塚を探しに出かけました。


 ▲国道18号/上豊岡町の信号を南に渡り
 

 上下に並んだ遊歩道の少し先…


 小高い場所に大木があり、草むらに「群馬県指定
 一里塚」の石柱がありました。
 

 解説は薄れてしまって読むのが難しい状態ですicon10
  (クリックで拡大します)
 
 一里塚とは江戸時代に街道の両側に一里(4km)ごとに築いた
 塚で、5間(9m)四方の盛り土をし、中央に榎を植えるのが一般
 的。街道を往来する旅人の行程の目安となり、夏には木蔭がよ
 き休憩所にもなりました。
 この中山道の一里塚は江戸から28里(約112km)にあり、樹齢
 200年を越えると思われる榎の大木が歴史を伝えています。
 (解説板より)
 


 大木の根元に石祠や石塔が並んでいます。
 国道の北側にも一里塚があるようですが、詳細は
 隠居の思ひつ記「藤塚の一里塚」でご覧になれます(^^ゞ 
 

 黄葉と周囲の感じが素敵でicon12


 安中への帰り道は、浅間山を眺めながら気持のよい
 ウォーキングを愉しむことができました^^。
 
 ◆藤塚の一里塚
 
  


2012年10月12日

坂本宿の白髭神社 ♪

 薬師坂を上り切ると国道18号線に出ます。
 少し歩くと、左に白髭(しらひげ)神社の案内
 板があり、名前に惹かれて訪ねました。9/28

 白髭神社由緒━白髭の老人日本武尊を救う━
 「日本武尊が東国を平定しての帰途、武蔵・上野をへて碓氷嶺東麓、川久保坂にさしかかった時、山の神は白鹿に化け尊の進路を妨げようとした。
 尊は蛭を投げて征せんとすると、たちまち濃霧が起こり、進退きわまった。すると剣を持った白鬚の老人が現れ、白鹿を撃退した。
 尊は白鬚の老人の霊験を猿田彦命の加護と思い、石祠を建て祀り、白鬚の老人にちなみ白鬚神社とした。なお、尊が濃霧を避難した岩を不動尊の岩と呼び、そこから落下する滝を麻芋の滝という。この滝を前宮として飛滝大神を祀る」(概略)


 神社の周辺には


 二十一夜塔や庚申塔の石造物や
 

 ○○講中と刻まれた石仏


 おだやかな表情の道祖神


 寛政15年と読みとれる石仏など、
 宿内から集められたものでしょうか…


 旅人でにぎわう坂本宿を見守ってきた白髭神社です。。。

 ◆白髭神社 
 
  


2012年10月05日

松井田宿の八幡宮 ♪


 △「松井田宿まち歩き」より (拡大します) 
 宿場通りから少し路地を歩き、松井田小学校の左奥
 

 建久8年(1197)に源頼朝が参拝に立ち寄ったといわれる
 松井田八幡宮です。 9/26

 
 おもしろいと思ったのが石段脇にある道標です。
 △正面には「向テ 左上高梨子ヲ経テ 細野ニ至ル」とあり、
 左側面には横書きで「行商人」の文字。△その下に掛川寅介
 他15名の奉納者の名前が記されています。
 行商人というところが、旅籠がメインではなく商業で繁栄した
 松井田宿の面目躍如という感じ。(この石柱は友人に教えて
 もらいました)


 参道脇には庚申塔や十三夜塔が並び   
 

 あまり広くはないのですが、神霊を感じる杉木立
 

 六角円堂は神仏混淆時代の名残といわれますが、
 中が雑然としていてちょっと残念icon10
 

 △拝殿


 △拝殿と本殿
 奥の本殿は群馬県指定重要文化財で三間社流造(さんげんしゃ
 ながれづくり)、銅板葺き

 
 △松井田八幡宮本殿の解説
 本殿は寛永年間(1624~1644)の建立と伝えられています。


 △神楽殿
  

 △特別な技巧をこらしてあるという敷石

 地元の方のお話では、社務所はありませんが白蛇さんがいる
 のだとか^^。静かで心やすらぐ八幡宮です。。。

 ◆松井田八幡宮 
 
  


2012年10月02日

坂本宿の薬師坂 ♪


 碓氷関所跡を過ぎて少し歩くと、国道18号(碓氷バイパス)に
 出ます。(振り向いて見るとこんな感じ)霧積橋を渡り。。。

 
 「碓氷関所時代、現在地霧積橋よりやや上流に川久保橋
 架けられていて、軍事目的から土橋だったので増水期には
 度々流失し…」その場合はどうしたか、はクリックで^^。


 国道は左にカーブして登りますが、直進の細い道が中山道です。


 「川久保 薬師坂」の石碑。いつもは車で通過して
 しまうのですが、ようやく歩くことができました。


 少し先の石段を登ると川久保薬師のお堂があります。


 元和元年(1623)に碓氷関所ができてから通行の取締りが
 厳しくなったことから、碓氷峠越えの旅人の無事通過を祈って
 薬師堂が建立されたようです。


 普通のお宅のような感じ。ガラス越しに覗くと、集会所風ですが
  

 奥に川久保薬師如来が祀られています。


 薬師堂の少し先に小さな祠があり、ささやかに
 「川久保薬師湧水」が流れ出ています。
 昔は通行量が多かったこの坂を登る旅人の乾い
 た喉を潤してくれたのでしょう。
   

 左に松井田西中を見ながら登る坂はかなり勾配
 がきついのですが、登り切ると
 

 再び国道に合流して、坂本宿へ入ります。

◆薬師坂
 
  


2012年08月27日

坂本宿の旅籠「かぎや」さん ♪


 △左:かぎや(鍵屋)△右:坂本公民館(もとは酒屋・脇本陣)

 何年もの間、日帰り温泉への往復に、通過するだけの坂本宿
 でしたが…
 最近、ボランティア仲間の女性のお宅が、坂本宿を代表する
 旅籠「かぎや」さんだと聞いたときには、一瞬眼が開きっぱな
 しになってしまい、なんともうれしいご縁!^^。


 昔の旅籠の風情が色濃く保存されている、数少ない建物。(click! )


 品のあるたたずまい。。。
 お願いして、内部を見せて頂けることになりました。


 △かぎやさんの説明看板
 およそ370年前、高崎藩納戸役鍵番をしていた武井家の
 先祖が坂本に移住して、旅籠「鍵屋」を営んだそうです。
 

 家紋の下に、わかりやすい屋根看板があり


 往還に面した建物はすべて二階造りだったようです。
 間口は六間。片側の土間は裏まで通じて、ひんやり
 とした風が通り抜け、居心地のよい空間です。


 天井を低く改装したときに、大黒柱が少し削られて
 しまったとか。昔ながらの間取りはそのままです。


 奥のお茶の間で、お茶を頂いてしまいました(^^ゞ
 宿場歩きの観光客が勝手に入ってきてしまうそうですが、
 個人のお宅なので、気をつけて欲しいものです。

◆坂本宿
  
  


2012年03月19日

中仙道と中山道 ♪


 △板鼻公民館入口にある中仙道板鼻宿の碑 
  揮毫/ 海音寺潮五郎

 安中市学習の森ふるさと学習館の歴史講座
 「中山道松井田宿・坂本宿」の資料に
 幕府は享保元年(1716年)4月15日、中仙道の名称を
 「中山道」と、仙の字の人偏(にんべん)を取って山(せん)とし、
 甲州街道を「甲州道中」と変更すると触れを出した。
とあり、
 東海道と奥羽街道との中間にあるので中山道という呼び名に
 したそうです。
 信州望月宿に残る「右中仙道」と読める道しるべの写真があり
 ました。

 そういえば、「中山道」と彫られた道しるべは見たことがあり
 ますが、「中仙道」というのは見た記憶がないので、望月宿に
 行かなければ見られないのかなぁ…と思っていました。。。

 ところが、隠居の思ひつ記『続・鎌倉街道探訪記(15)』
 道路脇に転がっている道しるべicon10の写真を拡大して見ると
 「中仙道」という文字がはっきり読めるではありませんか!
 しかも高崎最古の道しるべですって!?
 最近、こういう偶然に出会うことが多くてうれしいのですが…
 ああ、もったいない!! 
   


2011年08月11日

育て、スギの子 ♪


 去年の「原市のスギ並木」です。   2010.3.1


 昨日通ったら、何か違う感じicon121年以上が経過・・・
 朝の光の中で葉の緑が生き生きとして
 スギの子の成長が見られ、うれしくなりました^^。

 
 ちなみに昭和30年代のスギ並木 出典:『安中市の文化財』
  


2011年08月08日

「碓氷川水源地」はパワースポット !?

 「碓氷川の水源はどこなんだろう」と思っていましたが…
 碓氷峠にあると知り、熊野神社に行ったとき撮った写真がある
 ことを思い出しました。


 熊野神社前から峠の茶屋前を通過して奥に進むと、遠足マラ
 ソンで勇者が走る山道(旧中山道)に。。。


 少し下って右側の斜面を降りた所に碓氷川水源地があるそう
 ですが、狭い急坂だったので、このときは行きそびれて…


 そういえばこんな看板もありました。
 調べてみると、群馬県内のパワースポットicon12にリストアップ
 されていました。次回はぜひ行ってみようっと…^^。

☆水源地の写真はこちらのブログでご覧になれます。↓ 
『長野県に移住した人生- 長野の田舎暮らしと自然の風景- 』
http://naganoken.blog86.fc2.com/blog-entry-1176.html

☆群馬県のパワースポット一覧
 http://powerspot.crap.jp/a/48.html
  


2010年07月29日

皇女和宮資料館・エピソード ♪

 NHK BShi / BS2 放送の中継シリーズ
 『街道てくてく旅』は2006年4月の放
 送開始から、これまで東海道・中山道・
 甲州街道・日光奥州街道、四国八十八
 か所、山陽道、熊野古道を踏破した
 そうですが…

第4シリーズは2006年秋(9月18日~12月1日)の中山道でした。
京都・三条大橋から東京・日本橋まで全長およそ530キロ、元五輪
代表ショートトラック・スピードスケート選手、勅使川原郁恵さんが11
週間かけて街道を歩いて旅し、六十九次すべての宿場町を訪ねま
した。

街道でのさまざまな出会いやふれあい、発見が「街道を歩く楽しさ」
を満喫させてくれたようですが、勅使川原さんが岐阜県出身だった
ため、中山道を選んだそうです。

中山道では坂本宿から安中宿を経由して板鼻宿を訪れました。
そのとき、板鼻史跡保存会会長であり、皇女和宮資料館の案内もされている勅使川原四士男さんにNHKから案内役の依頼があったそうです。
奇しくも同姓のおふたりですが、和宮資料館に展示されている、16歳で降嫁した姫君の小さな草履を手にとった(特別な計らいのようですが)とき、若い旅人は涙をポロポロこぼしたそうです。

 
 ↑和宮が履いたと伝わる草履   ↑皇女和宮資料館

また、板鼻に遺された草履は鼻緒が質素な白無地であるのに、他の
宿場に遺るものは赤い柄だそうで、「どちらが本物か…は、言うまでも
ないことでしょう。」とのお話でした。

 ◆皇女和宮資料館  群馬県安中市板鼻1-6-20

  


2010年04月21日

板鼻宿の花屋さん ♪


 板鼻宿に残っている一番古い建物の近くを散歩していると。。。


 二人連れの女性が花屋さんに入り、建物を見させて頂く様子がicon12
 ここぞとばかり、、、ちゃっかりお仲間に入れて頂いて・・・ ^^ゞ


江戸時代末期の土蔵造りなので入ると ひんやり・・・
90歳になられる お元気な店主さんのお話では
冬暖かく夏は涼しいのだとか・・・。  ↑入口の天井


 龍馬さんがトントンと降りてきそうな階段も・・・^^。

  
 建物の傷みが気になるそうですが、費用もかかり なかなか・・・
  
 「大黒様は古いものらしいヨ」と廻りを片づけて頂いて・・・

で、、、もう一度外観の写真を撮っていると
「屋根の下の隙間はなぜあるのか 知ってる?」と
 声をかけて下さる方が・・・「ハァ・・・?」
大火事になったとき屋根が燃えても本体が燃えないように
造ってあるんだよ」・・・「ハハァ、なるほど・・・」

お向かいのスーパー しげたストア のご主人でしたが、
見ず知らずのブロオバに親切に板鼻宿のことをいろいろ
教えていただけて・・・
なんてやさしい、あったかい町なのでしょう・・・face05

  


2010年04月14日

安中草三郎 <その2> ♪


 三社神社の階段下左にある草三之碑
 ※寄席では安中草三郎は「あんなかそうざ」と呼ばれる。

図書館で検索してもらうと三遊亭円朝全集5』
「後開榛名梅ヶ香(おくれざき はるなのうめがか)」が
収録されていることがわかり、取り寄せてもらいましたが
長編で登場人物が多く、読了は無理・・・(- -;

で、いろいろな解説を読んでみると
円朝が34、5歳(明治5、6年)頃、「榛名の梅吉」や「あんもの草三」
といった下敷になる話をもとに、伊香保の土地の親分、福田龍造
から直接聞いた話も加えて、実地調査の上で創作された安中草三
の伝記である。明治18年から19年にかけて分冊で刊行された。
大長編なので通しで演じられることは今後もなさそう。
落語のほかに、講談浪曲歌舞伎でも演じられているという
ことです。

←かつて「虎造節」で一世を風靡し、人々を魅了
 した浪曲師・広沢虎造が影響を受けた名人で
 三代 鼈甲齋虎丸(べっこうさいとらまる)の
「安中草三郎 表題附:千住の捕物」のレコード

新しいところでは2009年11月7日に、落語家のむかし家今松
国立演芸場の独演会で『後開榛名梅香』より「安中草三」を演じて
75分間、退屈する箇所は一箇所もなかった・・・そうです。

「後開榛名梅ヶ香」の詳しい内容はこちらにありますが、安中草三郎(のちに榛名の梅吉)の奥さんのお墓の写真が掲載されています。「伝安中草三郎妻うた女墓」と読めますが・・・。

  「草三之碑」近くの東光院墓地と
  いうことで、訪ねてみましたが・・・
  確認はできませんでした。
  ◆東光院 安中市安中3-22-36

上州の侠客榛名の梅吉は実在したとしても、安中草三郎は円朝
の創作上の人物・・・安中草三郎が実在したと言い切れるかどうか
は、疑問の残るところです。


  


2010年03月27日

安中草三郎 <その1> ♪


 本文とは関係ありませんが・・・浅間山がまた雪化粧 icon01   9:32  

そもそも・・・発端は
図書館で求めた冊子「安中ふるさと人物辞典」でした。
「安中草三郎」・・・初めて見る名前です。

  
 ▲草三之碑             ▲三社神社

安中草三郎 (あんなか・そうざぶろう)
三遊亭円朝が明治5年に創作した人情噺(にんじょうばなし)
後開榛名梅香(おくれざきはるなのうめがか)」の主人公。
上野(こうずけ)(群馬県)安中に武士の子として生まれたが、義侠心
から奉公先の主人、恒川半三郎の罪をかぶり身代わりとして入牢。
脱牢し追われる身となり、榛名の梅吉と名をかえて伊香保に潜伏
中捕らえられ、小塚原で処刑される。
講談で大好評となり、のち歌舞伎化された。
実在の人物ではないが、円朝が実際に安中まで来て綿密に
取材したため、地元でも実在の人物と思っている人が多い。
伝馬町公民館裏「草三之碑」が建つ。戦前においては
杉並木と並んで全国的な知名度があった。(ふるさと人物辞典)

     * * * * * * * * * * *

地元の方に訊くと、伝馬町の信号脇にあった「万歳堂」というお菓子
屋さんでは「草三郎まんじゅう」が売られていたという情報も。。。
実在してない人の碑を建てるなんて、安中の人はなんて律儀で
やさしいの!と感激して写真を撮り、ネットで検索していたら・・・
な、なんと^^「実在した・・・」という記述が見つかりました!

で、、、、
詳細の出典本を取り寄せて確認したら・・・ご報告いたします^^。

 ☆続きはこちら


▼安中市伝馬町公民館(安中市安中479)

  


2010年03月21日

鷹之巣神社はどこ・・・?


 地図にはあるけど 実際どこにあるのか、表示も出て
 いない 不思議な鷹之巣神社が気になって・・・


 板鼻の古城団地入口の信号近く らしい・・・


 急な坂道を上って・・・(墓地があって行きどまりの噂も)
 

 鷹の巣橋安中方面がよく見えます^^。


 上杉家の墓地の奥に門が残されていていました!
(※板鼻 の上杉医院のご先祖さまが神主さんだったとか・・・
 失礼して墓碑銘を見させていただくと、文化・文政の年号が
 あり「○○姫之墓」など、歴史を感じるお墓でした。)


 修験道の神社だったそうですが、明治に廃社されたようで…
(当時荒廃した状態だったので、分社されたようです。3/30 訂正)


 新しい祠(ほこら)が祀られていました。
 (※「学習の森」の方にいろいろ教えていただきました。) 

鷹之巣神社(たかのすじんじゃ)

 鷹之巣神社は、鷹巣山に鎮座する板鼻の鎮守で、もともとは
金比羅宮だったが明治42年、本町八坂神社、神明宮、愛宕神社、
管沢稲荷等を合祀して、鷹巣神社と改称された。 祭神は大物主
命、火産霊命、伊勢三郎義盛である。 
 依田氏の鷹巣城跡に祀られていた石神を母体に、慶長年間、旧
別当本山派修験三宝院鷹巣寺祐善により、境内の造営がなされ、
二世祐尊の時代に、酒井雅楽頭祈願所となり、額殿、神楽殿、神
門が整備され、中山道板鼻宿の発展と共に栄えたとある。
 取勝明神は、伊勢三郎義盛公を祀り、神明宮は伊勢殿と呼ばれ
ている。 なお、源義経の家来、伊勢三郎義盛は上野国板鼻の
出身といわれるが、付近に屋敷跡といわれるところが残る。
  


2010年03月12日

板鼻宿・碓氷の渡し場跡 ♪

 中山道を江戸から14番目の宿場、板鼻宿
 板鼻宿 西の碓氷川は増水すると川止めになり板鼻宿にとっては
 繁栄の機会となったようです。  
 鷹の巣橋東信号の脇にある茶屋「伊勢路」(佐藤氏所有)は文政
 時代当時鷹巣茶屋の跡地で、川止めされた旅人で賑わったと云
 われています。
 

 道路側入り口の左に「中山道 板鼻宿 碓氷の渡し場跡」
 という案内があり、わかりやすい絵も掲示されています。

 (クリックで拡大画像)

 ※碓氷川の歩渡し(かちわたし=人足の肩に乗って川を渡った)
  架橋が禁止されていたため徒渡しが普通だったが、冬季に限り
  仮の土橋が架けられていた。宝暦2年(1752)からは常設の土橋
  が架けられたという。 


 散歩道で見つけたレンガ造りの旧鷹の巣橋の橋げた


 普段は水量も少ない穏やかな碓氷川
 

 現在の鷹の巣橋 信号を右折すると旧板鼻宿です。
  


2010年03月09日

五料茶屋本陣の遺産 ♪

 ☆掲載しきれないほど文化的な遺産や展示が多くて・・・icon10


 大王松(だいおうまつ)と米蔵(お東)
 ※大王松・・・北米産で葉が世界一長い松(樹齢100年)


 土間に入ると右手に馬屋があります。(お西は一つ、お東は二つ)


 土間に入ると左手にある風呂場
 竹のすのこの上で行水をし(冬は湯を使用)水は下に溜めておき
 人糞や尿を薄めて肥料に使ったそうです。


 時代を感じさせる上段の間の御簾(みす) (お西)


 懐かしい囲炉裏がある茶の間(お西)


 水舟(みずぶね)
 かけい(竹や木の樋)から飲料水を取っていました。


 木挽き鋸(こびきのこ)やの展示
 ※一番大きいのは大鋸(おが)
  ノコギリを引いたとき出る木屑をおがくず(大鋸くず)というのは
  ここからきているそうです。

 ◆五料茶屋本陣
  安中市松井田町五料564‐1 
  TEL 027‐393‐4790
  9:00~17:00 月曜休館 
  入館料:210円

 ◆五月人形展
  2010年4月20日(火)~5月16日(日)
  休館日:4月26日・5月6日・5月10日


  


2010年03月07日

五料の茶屋本陣 「お東」 ♪


 「お東」の出入口、武家屋敷に使われた冠木門。(現在は不使用)


 右には「人形蔵」左には「米蔵」があります。
  

 平成4年~7年に江戸期のままの姿に復元整備されました。 
 「お東」の方が旧様式をよく残しているといわれています。
 広い二階は養蚕に使用されていたようです。(現在は展示場)


 「お東」母屋。間口十三間、奥行七間。中央に「村玄関」があり
 左端には大名などが籠を乗りつけた「式台」があります。


 二階部分が三尺(約1m)ほど出張っている
 「出梁構造」になっています。


 凛としたたたずまいに和の精神を感じました。 
 

 奥から見るとこんな感じ・・・ 


 JR信越線が・・・通過しました。

☆何度も通過しているのに、初めて立ち寄った
 五料茶屋本陣でしたが・・・美しい郷土の宝でした^^。


◆五料茶屋本陣 安中市ホームページ

  


2010年03月06日

五料の茶屋本陣 「お西」 ♪


 18号の五料の信号の先を右折して「お東踏切」を渡ります。


 「お西」門の脇にに懐かしいポストが・・・? 


 「お西」から見学します。3月25日までひな人形展をやっています。
 

 一歩足を踏み入れると土間の匂いに ふわりと包まれました。


 杉、松材がほとんどで大黒柱はケヤキ材です。
 家族の住居部分、囲炉裏のある茶の間。


 縁側からの景色は借景庭園となっています。


 江戸時代からのひな人形が約1200体。上段の間など
 3つの部屋と廊下に所狭しと飾られて壮観です。

 ◆江戸時代の名主屋敷「五料の茶屋本陣」
 (群馬県指定史跡)
 参勤交代で中山道を通行する大名や公家が休息したところで、
 五料の茶屋本陣は2軒あり両家とも中島姓なので
 「お西」「お東」と呼ばれています。
 
 ◆五料茶屋本陣
 安中市松井田町五料564‐1 
 TEL 027‐393‐4790
 9:00~17:00 月曜休館 
 入館料:210円