群馬で出会った自然や季節の花、文化遺産、つぶやきなどを写真で綴ります。
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2016年07月09日

真田氏ゆかりの松代城跡♪

大河ドラマ『真田丸』で、真田家ゆかりの地として注目されている松代城跡を訪ねた時の写真です。 (photo 2015.11.4)


 △太鼓門     
 松代城は千曲川を天然の外堀として武田信玄が築城し、信玄と上杉謙信が激突した川中島の戦いでは武田軍の拠点とされましたが、当時は海津城とよばれていました。
 真田幸隆(信繁の祖父)はこの戦いでの活躍が認められて、武田家の重臣となりました。
 その後、関ケ原の戦いで東軍についた信之は、昌幸(父)・信繁(幸村)と敵味方に分かれましたが、東軍の勝利により信之は上田城主になり、昌幸・信繁は高野山へ配流となりました。
 

△松代城跡の図


 △石垣と内堀
 元和8年(1622)、徳川家の命で上田から松代へ移封された真田信之(信幸)が松代城を中心に城下町を築き、真田十万石として信州最大の藩として繁栄しました。
 

 松代城は明治4年(1871)の廃藩置県までの約250年間、松代藩真田家の居城として使われ、城下には武家屋敷や真田家ゆかりの寺が多く見られます。


 △南の櫓門
 
 池波正太郎の『信濃大名記』には、元和8年(1622)8月、
幕府より国替えを命じられ、二ヶ月後に信之一行が上田城
を発って松代へ向かうときの様子は「三十余年に亘る真田
家の善政をよろこんでいただけに、やがて来る新しい領主
の治政に不安を抱く領民たちが、心から信幸を慕って沿道
に群れ集まり、別れを惜しんだ。」と描かれています。


 本丸跡は広場になっていて、桜樹などが植えられて
 散歩道としても最適な感じ。


 △当時の石工の技術の高さを物語る、ダイナミックに天然石を積み
 上げた野面積み(のづらずみ)の石垣。


 △戌亥隅櫓台
 石垣の上は展望台になっています。


 2004年(平成16年)太鼓門、堀、石垣、土塁などが
 復元され、松代城跡は2006年(平成18年)には日本
 100名城に選定されました。


 彼方に北アルプスの峰々が望めますが、左でとがって
 見えるのは鹿島鎗ケ岳かも。。。
   


Posted by 風子 at 13:27Comments(2)真田街道めぐり

2016年06月19日

岩櫃城本丸跡と岩櫃神社♪

NHK大河ドラマ「真田丸」で脚光を浴びている岩櫃山は標高802m。
ハイキングコースとして人気があるそうですが、200mあるという絶壁
を眺めただけで恐れをなしてしまい・・・山頂までは難しそうなので、
とりあえず岩櫃城本丸跡まで行ってみることにしました。   4/6


 岩櫃城本丸跡の表示板を目当てに走り・・・ 


 平沢登山口駐車場に着くと、県内外からの車でほぼ満タンでした。
 

 観光案内所で資料をもらって、ボランティアの方の親切な説明を
 聴いてから本丸へ向かいます。
 

 左は岩櫃城本丸跡、右は岩櫃山方面。「熊出没注意!」の表示板
 もあります。


 杉木立に囲まれた坂をダラダラ上り・・・


 広場のような中城址へ出ました。


 丸太で階段状に整備された登坂道を上り、ほどなく
 南側が開けた場所で休憩。


 堀跡らしい地形も見られます。


 15分ほどで本丸跡に到着しました。本丸跡までは
 意外に近く、ほっと一息です。

岩櫃城は14世紀頃築かれ、吾妻郡の政治・軍事の中心でしたが、
伝説的な城主として吾妻太郎の名が知られています。
戦国時代には難攻不落とされた山城でしたが、真田幸隆(幸村の
祖父)の攻略により武田信玄の支配下に置かれ、久能城(静岡県)・
岩殿城(山梨県)と共に、武田氏の三名城のひとつと言われました。
武田氏没落後は真田氏の城となり、昌幸・信之(信幸)と真田三代に
よる上州攻略の拠点となりましたが、元和元年(1615)、徳川家康
一国一城令により廃城となりました。


 案内所まで戻り、向かい側に「岩櫃神社」の表示が
 あったので立ち寄ってみました。


 △かつての天狗丸、正面の木立が岩櫃神社。

 岩櫃城は真田一族の忍者の基地だったといわれ、忍者を諜報機
 関として養成するのに、この天狗丸あたりが鍛錬の場および活動
 の拠点だったとか。。。  (参考:JR東日本「小さな旅」)


 △観光協会パンフレットの地図

大河ドラマ「真田丸」には、真田家の家臣として寺島進さん好演の出浦昌相(いでうらまさすけ)が登場していますが、出浦盛清(昌相)は真田昌幸・真田信之に仕え、真田忍びを統率して活躍した人物で、岩櫃城では最後の城代を務めました。



 △岩櫃神社

岩櫃城は真田信繁(幸村)が少年時代を過ごしたといわれる城だ
ということにもロマンを感じ、また、小説『真田太平記』に登場する忍
者忍びの活躍に胸をおどらせたことが想い起こされて、なんとも愉し
いひと時でした^^。

◆岩櫃城跡

  


Posted by 風子 at 16:40Comments(2)真田街道めぐり

2016年06月13日

みなかみ町の名胡桃城址 ♪


 国道17号を水上方面に向かうと「名胡桃城址前」の
 信号がありますが、通る度に名胡桃(なぐるみ)という
 かわいらしい名称が気になっていました。


 △地域略図(拡大します)
 平安時代の書物によると、この一帯は「呉桃郡(くるみのこおり)と
 いわれ、その後もナグルミと呼ばれたのが城の名前の由来だそう
 です。


 信号脇には無料休憩所を兼ねた案内所・資料展示室があります。
 ドラマ「真田丸」人気で、多くの見学者が訪れているようです。
 

 △豊臣秀吉から真田昌幸に送られた書状
 貴重な文書や、三国街道に関する資料などが展示されています。

  信州、越後、会津を結ぶ交通の要衝であった沼田に近い軍事拠
 点・名胡桃城は戦国大名により争奪戦が繰り返されました。
  天正6年(1578)、甲斐の武田勝頼の命を受けた真田昌幸が吾
 妻・利根に進出、名胡桃城を拠点に対岸の明徳寺城を攻略、さら
 に沼田城を調略により手に入れました。
  その後も真田氏と北条氏による領地争いが続き、天正17年(15
 89)7月、豊臣秀吉はこれを裁定し、利根川を境に東部一帯(
 田
)を北条領、西(名胡桃)を真田領としました。
  ところが北条方の沼田城代猪俣邦憲が名胡桃城を攻撃し、奪取
 したことに激怒した秀吉は、天正15年(1587)に発布した「惣無事
 令
(そうぶじれい)=私闘の禁止」を北条氏が破ったとして討伐に乗
 り出し、天正18年(1590)小田原城攻めが行われ、北条氏が滅
 亡しました。ちいさな山城が戦国時代を終わらせ歴史を動かすきっ
 かけとなりましたが、名胡桃城はその後、廃城となりました。


 △名胡桃城址の模型
 名胡桃城は、武田勝頼の命を受けた真田昌幸が天正7年頃築いた
 城で、赤谷川が利根川に合流する地点の段丘上にある、自然の要
 害を利用した山城です。


 △名胡桃城址全体図 

 
 発掘により名胡桃城址の般若郭(はんにゃくるわ)に古い居館の
 址が明らかになり、掘っ建て柱による建物20ケ所が確認され、名
 胡桃氏(沼田景久の子 景冬が名胡桃氏を称した)の居館であっ
 たと推定されています。


 当時の遺構は馬出しや三日月堀、土塁跡などが
 確認されていますが、保存のため地下遺構は埋
 め戻されています。




 天守閣はなく、砦のような感じだったようです。


 名胡桃城址は大正12年に地元の有志で結成された保存会によっ
 て保存管理され、松や桜の樹木を植え、史跡公園として完成させ
 ました。


 △本郭中央にある「名胡桃城址之碑
 石碑の文字は徳富蘇峰によるもので、大正13年の建立。
 村中総出で運び建てたものだそうです。


 城址突端の「ささ郭」から月夜野が望めます。沼田城址はもっと
 右のようですが、確認はできませんでした。  3/11

◆名胡桃城址

  


Posted by 風子 at 12:26Comments(2)真田街道めぐり

2016年06月02日

四万温泉の日向見薬師堂 ♪


 日向見薬師堂は、 四万温泉の温泉街の奥にあります。


 薬師堂の向かい側には、2006年にリニューアルオープンした無料
 の共同浴場御夢想の湯があります。 


 正面に見えるのはお籠堂(おこもりどう)


       △お籠堂                  △薬師堂

薬師堂】 国指定重要文化財 (明治45年2月8日指定)
寄棟造、屋根は茅葺で間口3間・奥行き3間。
棟札によると、慶長3年(1598)伊勢国鹿目喜左衛門藤原家貞が、
真田信幸(信之)の武運長久を祈願して建てたものです。
堂内の厨子は天文6年(1537)に造られたものです。
この建物は重要文化財に指定されている県内唯一の寺院建築
あり、現存の寺院建築として県内最古のものです。 
薬師堂はお籠堂(おこもりどう)とともに、温泉と結びついた薬師信仰
を物語る建物としても貴重なものです。(案内板より)

お籠堂】 町指定重要文化財
薬師堂の前にあるお籠堂は、慶長19(1614)に建てられたものである。(明治22年 四万村誌による)
間口約4.79m、奥行き約3.66mで中央に幅約1.01mの通路がある。
現在はガラス戸だが、はじめは戸や障子などの仕切りもなく開放され
たものであった。
このお籠堂には、湯治客(温泉に入って療養する人)が病気を治す
ために定められた日数、一昼夜・七日・百日などの期間、心身を清め
お籠堂に閉じこもり、お経を読んだり、唱えたり、断食や水垢離(みず
ごり)などの荒行をすることもあったという。
昭和60年(1985)に解体修理された。
建築年代と、構造上中央を通路にしたものは数少なく、貴重な建物
である。(案内板より)


 △薬師堂
 四万温泉発祥のお告げをもたらした神様であり、すべての人を
 病気の苦しみから救ってくれるという「薬師瑠璃光如来」を祀って
 います。


 △堂内


 お籠堂は中央に通路があります。



池波正太郎の『真田太平記』や『獅子』で信之ファンになって以来、
ぜひ訪れたいと思っていましたが、いにしえの雰囲気が漂う薬師堂
をお参りし、清々しい気持ちになれました。      2016.4.6

◆日向見薬師堂

  


Posted by 風子 at 11:35Comments(2)真田街道めぐり

2016年05月24日

中之条町の林昌寺♪

 NHK大河ドラマ「真田丸」人気で、真田街道に沿った史跡には多くの観光客が訪れているようです。
 戦国の世、真田氏は信濃国上田を拠点とし、上野国へ勢力を広げました。上田から鳥居峠までは「上州街道」、鳥居峠から群馬県内を東に向かう道を「長野街道」と呼び、それらの道は通称「真田街道」とか「真田道」と呼ばれています。
 何年かぶりに出掛けた四万温泉への道すがら、まだ行っていない真田氏ゆかり地をピックアップして訪れてみました。2016/4/6


 △曹洞宗宝満山林昌寺

 平安時代の創建。戦国時代に荒廃しましたが、真田幸隆の弟(真田昌幸の叔父)矢沢頼綱により再建されました。領主・真田昌幸より六連銭(六文銭)の寺紋と改修資金をを与えられ、以後、信之・信吉・信政など真田家の庇護を受け、寺勢を伸ばしました。(案内板より)
 頼綱は百戦錬磨の武将であったと伝えられています。


 元文年間建立の立派な山門にも


 本堂屋根にも、六連銭。。。


 △身代わり地蔵菩薩

 矢沢頼綱は上和泉の合戦の折、敗走の背に敵兵から矢を受けましたが、1人の若武者が身代わりとなって救いました。その後、頼綱の夢枕に地蔵菩薩が顕れ、身代わりになったのは菩薩だったことを告げました。頼綱は隠居すると堂宇を再建し、地蔵菩薩像を祀り戦没者の供養と追想に暮れたと伝えられています。(案内板より)


 △シダレザクラの古木は町指定天然記念物
 (幹囲4メートル、樹高20メートル、樹齢は不明)
 

 町を歩くと、地元の人が「シダレザクラを見た?」と声をかけてくれたり、道案内をしてくれたり・・・旅人にやさしい中之条町です。


 前日はあいにくの曇天。青空を背景に満開の
 シダレザクラを見ようと、翌日も立ち寄りました。


 評判通りの見事なシダレザクラでした。
 平成12年に亡くなった小渕元首相が眠る林昌寺です。 
 
◆林昌寺 
 群馬県吾妻郡中之条町大字伊勢町1002

  


Posted by 風子 at 20:06Comments(2)真田街道めぐり

2014年04月16日

沼田公園の桜 ♪


 渋川からちょいと足をのばして、沼田公園の桜見物です。。。 4/16


 沼田城は破却されましたが、発掘された石垣と石段
 の上に立つ、樹齢400年の御殿桜からは強い生命力
 を感じます。


 鐘楼もおめかしして・・・桜まつり(3/30~4/26)と
 花と緑のぐんまづくり 2014in沼田(4/19~5/18)が
 同時開催icon12されるそうです。
 http://hanatomidori.net/
  

 すっきりした青空ではなかったので、谷川岳はかすんでいましたicon10

 
△上野国沼田城絵図と解説      旧土岐家住宅洋館の解説△
 公園内にはあちこちに歴史的ガイドが設置されています。


 △旧土岐家(ときけ)住宅洋館 
 生方記念資料館は休館日でしたが、旧土岐家住宅
 は垣根の外から眺めることができました。
  

 満開の桜と歴史散策で贅沢なひとときを過ごせました^^。
 
 ◆沼田公園

  


Posted by 風子 at 22:08Comments(6)真田街道めぐり

2013年11月14日

上田城けやき並木の紅葉 ♪


 天正11年(1583)、真田昌幸(幸村の父)により築城された上田城
 は、“徳川の大軍を二度にわたり退けた戦国の名城”と紹介されて
 います。(上田市ホームページ)


 「上田城けやき並木紅葉まつり」は終わりましたが


 上田城二の丸の堀跡に立ち並ぶ


 樹齢100年といわれるけやきの大木。。。 


 落葉が敷きつめられた遊歩道をそぞろ歩いて
 

 秋の深まりをしみじみと感じることができました^^。    11/12
  


Posted by 風子 at 19:49Comments(0)真田街道めぐり

2010年11月13日

上田城跡公園☆紅葉さんぽ(2)♪


 「信州上田城けやき並木紅葉まつり」で、すごい賑わい♪ 11/10
 
 
 けやき並木遊歩道は、かつては上田城の外堀でしたが、昭和
 47年までは上田温電北東線の列車が走っていたそうです。
 落ち葉の絨毯を踏みしめて散歩を楽しめ・・・夜はライトアップで
 幻想的な黄金色が浮かび上がるとかicon12 (2008/11/10撮影)


 上田城本丸跡の公園ではイチョウ、サクラ、モミジの
 紅葉を一緒に見ることができます。


 いつも思うのですが、京都の紅葉もこんな感じ…?


 今年も期待通りのもみじに出会えました^^。
 

 城跡の落ち葉散歩もよいものです。。。

   


Posted by 風子 at 15:33Comments(2)真田街道めぐり

2010年11月12日

上田城跡公園☆紅葉さんぽ(1)♪


 上田城二の丸堀跡のけやき並木、何度見ても素敵です。


 本丸入口の石垣に長径3mの伝説の真田石があります。

 真田石(さなだいし)
 真田信之公の松代移封のとき持ち去ろうと
 したが動かなかった、と伝えられています。


 明治維新により城の建物も土地も売却されましたが、先人たちの
 努力により本丸に代々の藩主を祭る真田神社が建立され、城跡
 も今日見る姿に残ったのだそうです。

 
 神社の奥に進むと・・・



真田井戸…城内唯一の大井戸
 この井戸からは抜け穴があって、
 城の北方の山麓に通じていたとの伝説が。


 本丸奥の堀端の紅葉もすすんで・・・icon12


 歴史を思いながら、贅沢な紅葉散歩です^^。 

 ◆上田城跡公園   


Posted by 風子 at 21:14Comments(2)真田街道めぐり

2010年11月11日

黄葉ドライブ2 (六文銭の街) ♪


 こんな通りを走っているかと思うと…    11/10


 戦場(いくさば)にまぎれ込んでしまったような感じがしたり…icon10
 (上田城跡の駐車場)
 

 どこかに必ず六文銭があり…icon12

 ◆六文銭…幸村(信繁)で知られる真田一族の旗印。
  六文銭とは三途(さんず)の川の渡し賃のこと。
  徳川の大軍の2度の攻撃にも怖れを知らず打ち向かう勇姿を
  象徴するかのようです。
  (詳細は、はるなフルーツタイムスさんでどうぞ^^v)


 おっと、ここにも六文銭!見落とすところでした。(^^ゞ
 

 昔と今が融合した素敵な街…上田市です^^。
 
2010 信州上田城けやき並木紅葉まつり
 【開催期間】
  平成22年11月6日(土曜日)~11月14日(日曜日)
   


Posted by 風子 at 20:30Comments(2)真田街道めぐり