群馬で出会った自然や季節の花、文化遺産、つぶやきなどを写真で綴ります。
< 2017年04月 >
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2015年11月08日

安中文化会の講演会「新島襄先生の詩歌に学ぶ」♪

  11月7日に『新島襄先生の詩歌に学ぶ』~少年期から永眠まで
 ~
と題した、創立50周年を迎えた安中文化会主催の記念講演会
 が安中市文化センター3階大会議室でありました。



  講師は安中市文化財調査委員である淡路博和先生で、テーマは



 「新島襄の激動の生涯を遺された詩歌から読み解く」です。



  群馬に移住してから「上毛かるた」の存在を知り、平和の使い 新
 島襄
を覚えましたが、その生涯を学ぶほどに〝郷土の誇り″という
 思いが強くなります。

  安中藩士として生まれ、漢文・蘭学を学び、後に英文に触れた新
 島襄は、生涯に46の漢詩、32の短歌、11の俳句を遺しています。



  詳細な年譜を見ながら、襄の知られざるエピソードと折々に作ら
 れた詩歌の心を学ぶことができました。

  残念ながら46歳で早世した新島襄ですが、襄が蒔いた種はその
 後日本各地で教育に携わった人々の心に育ち、開花しました。

  ちなみに人気の朝ドラ「あさが来た」の原案本「小説 土佐堀川
 広岡朝子の生涯」に登場する麻生正蔵もその一人で、同志社英
 学校新島襄に学び、男女平等を説き、成瀬仁蔵と共に日本女
 子大学校(日本女子大学)設立に尽力し、後に学長となりました。

  ◆新島襄の漢詩 「寒梅」

   庭上一寒梅 (ていじょうの いちかんばい)

   笑侵風雪開 (わろうて ふうせつをおかして ひらく)

   不争又不力 (あらそわず また つとめず)

   自占百花魁 (おのずからしむ ひゃっかのさきがけ)

 1889年12月、療養先である大磯の百足屋(むかでや)旅館での作。
 【庭にある寒梅の木は、冷たい風や雪をものともせず花を咲かせ
 る。争わず、力づくでもなく、真っ先に花を咲かせることを自分の役
 割としているのだ】と、どんな事があっても信念をもって生きる大切
 さを伝えているのでしょう。 (安中市教育委員会の冊子より引用)
   


Posted by 風子 at 10:34Comments(2)■歴史講座

2014年06月13日

秩父方面へ研修 に(3) ♪


 秩父まつり会館の向かい側にある、創建されて今年で2100年と
 いう秩父神社を訪ねました。養蚕にも縁が深い神社だそうです。
 手前のハート形はおみくじ結び用に作られたもの。    5/23


 神額は万葉仮名で「知知夫神社」。時が流れ、「秩父」と表記され
 るようになったようです。
 

 戦国時代末期に焼失した社殿は、天正20年(1592年)徳川家康に
 より再建されました。(埼玉県有形文化財)


 その昔、夜な夜な近くの池に現われた龍を鎖でつなぎ止めたという
 △つなぎの龍(伝 左甚五郎作)
 この他にも、随所に極彩色の豪華な彫刻が見られます。


 宮司さんのわかりやすい解説に、見学者も興味津々。。。



 日光東照宮では
 「見ざる・言わざる・聞かざる」ですが、
 こちらは「よく見て・よく聞いて・よく話す」
 △お元気三猿



 △北辰の梟(ふくろう)
 体の向きは南を向いていますが頭は北向きで、思慮深く昼夜を
 問わずご祭神をお守りしているそうです。
 

 毎年12月3日に行われる例祭 秩父夜祭(国の重要無形民俗文
 化財)は、武甲山の男神(龍神様)と秩父神社の女神(妙見様)の
 年に一度の逢瀬の祭りとして、七夕伝説のようにロマンチックな
 物語として伝えられ


 豪華な笠鉾・屋台の曳き回しや打ち上げ花火の見物客で賑わう
 そうです。 境内には皇族方と縁のある樹木などもあり、見どころ
 満載の秩父神社でした^^。

 ◆秩父神社
 
  


Posted by 風子 at 12:21Comments(2)■歴史講座

2014年05月28日

秩父方面へ研修 に(2) ♪


 鉢形城公園の次は、秩父神社 の向かい側にある秩父まつり会館
 の見学です。
  

 △秩父まつり会館の案内(クリックで拡大します)  


 △秩父まつり会館入口


 秩父夜祭(毎年12月2・3日)は、日本三大曳山祭
 (京都の祇園祭、飛騨の高山祭)に数えられる、
 秩父神社の例大祭で、寛文年間(約300余年前)
 にはじめられたとか。この祭りは江戸中期、秩父
 神社に立った絹織物の市の発展と共に、盛大に
 行われるようになりました。


 館内には華やかな笠鉾と屋台が展示され、太鼓の
 音や花火を背景に、祭りの賑わいを味わえます。
 実際に曳かれる屋台は20t もあり毎回組み立てる
 そうですが、こちらは展示用。
 エキサイティングな夜祭を観たくなりました^^。


 2階では資料展示が見られ


 1階のおみやげコーナーも人気です。  

  ≫≫ 続きはこちら

◆秩父まつり会館
 http://www.chichibu-matsuri.jp/
  


Posted by 風子 at 21:30Comments(2)■歴史講座

2014年05月26日

秩父方面へ研修 に(1) ♪

坂本公民館5月の市外研修で、埼玉県へ出かけました。 5/23
まずは日本100名城に選定されている埼玉県寄居町の鉢形城跡


 荒川の景色を見ながら橋を渡ると、右手が城址公園です。
 荒川と支流の深沢川にはさまれる断崖絶壁の上に築かれた、
 東国における戦国時代の代表的な城跡です。(国指定史跡)


 発掘調査後に整備され、城郭の復元はされていませんが


 鉢形城公園として開園しました。
 案内役の伊丹仲七先生(安中市文化財調査委員)は桜の時期に
 訪れて、満開の桜を見られたそうです。


 △鉢形城跡曲輪配置図 (クリックで拡大)
 
 鉢形城は文明8年(1590)、関東管領山内上杉氏の家臣長尾景春 
 が築城したといわれ、関東地方において有数の規模を誇る城として
 北関東の拠点であり、甲斐・信濃からの侵攻への備えとして重要な
 役目を担いました。
 天正18年(1590)の豊臣秀吉による小田原征伐時に前田利家・上
 杉景勝らに包囲され、3000人足らずで35000人を相手に1ヶ月余り
 も籠城した後、城主北条氏邦は城兵の助命を条件に開城し、氏邦
 の身柄は前田利家に預けられ、鉢形城は廃城になりました。


 園内には鉢形城歴史館があり、今年の10月で
 開館10周年を迎えるそうです。


 1階の展示コーナーで館長さんに解説をしていただき、ビデオを観て
 から    △画像はフリーペーパーから借用


 館長さんに案内していただき、公園内を散策。。。


 堀や土塁がしっかりと残り


 往時の面影を残しています。
 

 樹木が多い公園は気持のよいひんやりとした空気に包まれてい
 て、散歩に訪れる人も多いようです。
 スケジュールの都合で広大な敷地をゆっくり散策できなかったの
 が、ちょっと残念。全部見るのには2~3時間かかりそうです。
 対岸から断崖絶壁も見たいし、お弁当持参で行ってみようっと^^。

 ◆寄居町ホームページ
  http://www.town.yorii.saitama.jp/

 ◆鉢形城公園

  


Posted by 風子 at 03:33Comments(6)■歴史講座

2014年04月03日

安中市秋間の石仏めぐり(2) ♪

安中市学習の森主催の碓氷歴史考古学講座「石仏めぐり」の
続きです。


急坂を上り、下秋間 後平(うしろだいら)の百庚申を見学しました。
  3/16


 主尊、脇尊が10基、秋間石で造られた文字庚申塔が90基。

   
 主尊は一面六臂(6本の腕)、三眼の青面(しょうめん)金剛像。
 (寛政10年:1798)上部に月と日を配し、弓や法輪を持ち、足下
 には「見ざる・言わざる・聞かざる」の三猿を踏み(天帝に罪を報
 告させないため?)、憤怒の相です。


 丘を下り雉ケ尾川にかかる立石橋からのぞくと、石塔がいくつか
 並べられた中に、蚕神 馬鳴(めみょう)菩薩がありました。
 
   
 写真で見たことはありますが、まさかこんな所にあるなんて!
  

 臼形の石を木鉢のように彫り、馬に乗った姫神 絹笠様がいます。
 上部には繭が3個見えます。右手に桑の枝、左手に稲の穂を持ち、
 明治26年(1893)の作だそうです。
 残存する絹笠様は少なく、幕末から明治にかけて養蚕の繁栄を願
 って建立されました。
 

 バスで移動し、東上秋間池尻の東神社(諏訪神社)へ


境内に並ぶ小型の石棺は「馬舟様」と呼ばれ、昔、日照りの際には
蓋をかぶせて雨乞いをすると、必ず雨が降ったとか。
  

 石棺は、古墳の玄室内に火葬された人骨を納めた
 もののようです。

参考:『養蚕の神々』/安中市ふるさと学習館
    第12回 秋間地区史跡見学会 資料/秋間史跡保存会
    平成25年度石仏めぐり資料/碓氷歴史考古学講座
     
 ◆東神社

  


Posted by 風子 at 16:43Comments(8)■歴史講座

2014年03月21日

安中市秋間の石仏めぐり(1) ♪

安中市学習の森主催の碓氷歴史考古学講座「石仏めぐり」で、
安中市秋間の石仏を鑑賞しました。
講師は伊丹仲七先生(安中市文化財調査委員)です。 3/16


 △忠僕 元助出生の地           下秋間/館(たて)
 岩戸山の赤穂四十七義士石像を建立したと伝えられている
 赤穂義士片岡源五上衛門の下僕元助の生地。


 溶岩でできたような洞の中に、元助の木像が安置
 されています。
 何度も通っている道路脇にあるなんて…知らなかったicon10


 道を隔てた向かい側には館の百体馬頭観世音があり、地元の
 方々が地内を清掃されていたようです。
 

 解説板に「百体とは信仰の深さを百に象徴したもの」と
 書かれ、近隣の参加者を募り建立したものだそうです。
 

文政9年(1826年)に造られた102体の馬頭観世音が楕円形に
並び、主尊にはベンガラらしい朱色がうっすらと残り、頭部に馬頭を
 

つけた、やさしく穏やかな表情の石像が多く見られました。
 

 △百体馬頭観世音と地続きの若宮八幡宮
 
 
 △子狛犬もしっかり自己主張しています。(昭和21年の作)


 バスに乗り「シモアキマカイギュウ」(900万年前の化石)が発見さ
 れた秋間川を通過して
 

 秋間川支流の日向川と雉ケ尾川が合流するあたりの畦道を行くと


 藤ノ木の地蔵菩薩石像がありました。背面に
 享保3年(1807)の銘文があり (安中市指定重要文化財)
 

明治になって道筋が変るまでは、山を越えて白岩
観音
へ通じる道・雉子ケ尾峠への道・三ノ倉への
道の3本辻だった場所です。165cmのすらりとした
お地蔵様にようやく逢えました^^。


 (拡大します)

 ≫≫続きはこちら

◆館の八幡宮


◆藤ノ木の地蔵菩薩像

  


Posted by 風子 at 23:22Comments(2)■歴史講座

2014年01月27日

迷道院高崎さんの講演と清水寺の田村堂 ♪

  
 1月22日に高崎市八幡公民館で迷道院高崎さん講演があり、市外者なので許可をいただいて参加しました。
 綿密に準備された資料とパワーポイントを駆使したプレゼンテーションは説得力があり、ブログとはひと味違う、高崎の隠れた歴史をわかりやすく解説していただく講演で、あっという間の2時間でした。
 項目のひとつ 、高崎清水寺(せいすいじ)の千手観音に関するお話を聞いているうちに、昨年読んだ本を思い出しました。

 国定忠治には三人の女性がいたそうですが、その一人、菊池徳は「女国定」と呼ばれるほど男優りで侠気ある女性だったようです。
 幕府はお上に対し徹底して逆らった忠治を、関所破りをした大戸関所で見せしめのため公開の磔(はりつけ)にしようとしましたが、その時、徳は歌舞伎役者のようないでたちを用意して、死出の旅に出る忠治に一世一代の華々しい最期を演じさせたのだそうです。最後までかっこいいヒーローでいて欲しかったのでしょう。

  徳の弟は田村仙学といい、忠治が大戸で
 磔刑に処せられた嘉永3年(1850)12月21日
 の9日後に、26歳で高崎清水寺の住職となり
 ました。 (清水寺観音堂 2010.7.1 撮影)
 元治元年(1864)3月27日筑波山に挙兵し、京都に向かって進軍していた水戸天狗党を600人の兵士で迎え撃つすることになった高崎藩士でしたが、後に下仁田戦争と名付けられた戦いで敗北し、死屍累々の惨状は言語に絶するものでした。
 その戦場に藩士の家族関係者ともども真っ先に駆け付け、戦死者の遺体を捜し弔ったのが田村仙学でした。そして、自らが住職を務める清水寺境内にお堂を建て、戦死者の木像を刻んで供養しました。

 
  △田村堂
 それが観音堂右手の田村堂で、堂内には下仁田において水戸天狗党と戦って戦死した高崎藩士36人の戦闘姿の木像が安置されていますが、その内訳は藩士31名と医師、町人など戦に駆り出された5名なのだそうです。



 
   
 お堂を建てた仙学の本意は、たまたま戦に駆り出され命を落と
した者の肖像を後世に残すことにあったといいます。
 仙学にも姉 徳に似た弱きを助ける仁侠の心映えを感じる、エピ
ソードです。

  引用:高橋敏 『国定忠治を男にした女侠』  
  参考書籍:中村明 『八州廻りと上州の無宿・博徒』
  


Posted by 風子 at 21:15Comments(2)■歴史講座

2014年01月24日

安中の明君 板倉勝明 ♪

学習の森 第13回企画展関連講演会
第3回は淡路博和先生の
「文教の町安中の礎 - 明君 板倉勝明 - 」というお話でした。(1/19)

板倉勝明(かつあきら)は文化6年(1809)11月、藩主 板倉勝尚(かつなお)と側室 多加の子として江戸佐久間町の板倉屋敷で生まれました。
 母 多加については、文書に「言葉少なく誠実で、家臣を大切に思う人・・・」と記さていることから、勝明侯がその母の血を受け継ぎ、領民を救済するためのシステムをつくった藩主であるということが納得できます。
 体が弱いため誕生後2年間、幕府への出生届を保留していたそうですが、文政3年(1820)父の死去により、12歳で家督を継ぎ、安中3万石の大名となりました。勝明は幼い時から賢く、学問を好み、成人してからは高名な師に学び、儒学者と交わり、歴史研究に励みました。人柄は心暖かく寛容で、下位の者に対しても優しかったと伝えられています。
 30代後半から体調をくずし、安政4年(1857)4月に48歳で逝去。墓地は愛知県西尾市の板倉一門の菩提寺・長円寺にあります。

■「甘雨亭叢書(かんうていそうしょ)」の編纂と発行
 甘雨は勝明の号。甘雨亭叢書は江戸時代初期からの学者・思想家の著述でまだ出版されていないものを、勝明侯が探し求めて刊行したものです。その原版(印刷用の版木)が1166枚現存し、印刷されたものは1集を8冊とし全10集の予定でしたが、勝明侯の死去のため第6集までとなっています。【安中市指定重要文化財】
 画像はこちらに↓
 http://bberry1.blog.fc2.com/blog-entry-150.html

■貧しい農民の救済

漆園之記(しつえんのき) 
 ・・・新島家旧宅北側
 「上州の土地は桑や漆(うるし)に適して
 いるが、人民は漆の利益が桑の倍あるこ
 とを知らない。
藩内に漆をおよそ100万株植え、村の長老達に約束した。一分は土地の所有者へ。一分は費用に、一分は税として納め、一分は藩領内の貧しい人々に与えることを決め、後々までそれを守らなければならない。」(意訳)
 勝明侯は漆の収益の4分の1は窮民に与えることを決めましたが、実際には漆の栽培は難しかったようです。

■有能な青年の教育 
 蘭学や西洋砲術を学ばせた青年の中に新島七五三太(しめた)後の新島襄がいました。襄はアメリカの恩人への手紙に、「勝明は中国の古典に精通し、国内では藩主たちのうちの最も傑出した学者として有名でした・・・。」と書いています。

■遠足(とおあし)の実施

「日本マラソン発祥の地安中」
 「安政二年(一八五五)ときの安中藩主
 板倉勝明公は藩士の心身鍛錬を目的と
 して五十才以下の藩士九十八名を数隊
 に分け 五月中旬より六月初旬にかけ安中城内より碓氷峠の熊野権現まで七里余の中山道を走らせた。これを『安中御城内御諸士御遠足』という。これは日本におけるマラソンのはじめである。」 (安中市文化センター)

■郷学校(ごうがっこう)の創設


  △桃渓書院の扁額(湯浅治郎が木版に刻したもの)
  勝明侯の命により、安政2年、五料村の桃木沢に郷学校「桃渓
 書院」
が創設され、地域の俊英が6年間学習し、女性も学びまし
 たが、明治5年の新制度発布により閉鎖され、残念ながら建物は
 残されていません。

■種痘の実施
 種痘は1796年(寛政8)にイギリスの医師エドワード・ジェンナーが
発明し、1849年(嘉永2年)に牛痘苗による種痘に初めて成功しましたが、その翌年には早くも安中で実施され、神田お玉ヶ池に種痘所が開設された安政5年(1858)より2年前の安政3年4月からは、安中藩領の村々すべてで実施されました。これは群馬県内の諸藩の中では最初でした。村方文書の「種痘日記」には、いつどこの村で何人の子供に接種したか等の詳細が記されています。
 種痘は藩主の思いつきや興味で実施したものではなく、事前に用意周到な調査がなされていたそうです。淡路先生が作成された資料には「まさに板倉勝明の明君たる所以であって、私たち安中市民は、このことを安中の大いなる誇りとなすべきであろう。」と書かれています。一般的には「名君」と付けられますが、先見の明があった藩主であることから、タイトルを「明君」とされたのだそうです。

  参考:資料「文教の町安中の礎 明君板倉勝明」
      「安中ふるさと人物辞典」
      「安中の文化財」

第13回企画展 「我が郷土の文学者」開催中!  
   --2014年2月3日(月)まで--  
  江戸時代から現代まで、安中市は数多くの文人・詩人・作家
  を輩出しています。
  また、多くの文学者が妙義山・碓氷峠に魅せられ、磯部・霧積
  温泉で静養し、文学作品の中に安中市の風景を残しました。
  湯浅半月・磯貝雲峰・大手拓治・白石実三・・・。
 安中市学習の森 ふるさと学習館(歴史博物館)
   安中市上間仁田951
   TEL:027-382-7622
   ○開館時間:9時~17時   ○観覧料:100円 
   ○休館日:毎週火曜日 
       


Posted by 風子 at 00:33Comments(4)■歴史講座

2013年10月28日

「榛名学ことはじめ」第5回 講演 ♪


 榛名町誌刊行記念セミナーの「榛名学ことはじめ」は
 榛名・倉渕保健センター2階の会議室で開催されました。
 「榛名学」というネーミングが素敵です^^。 10/27 


 △淡路博和 先生 「古文書からみた村の生活」
  江戸時代の領地・農民・年貢などについての豊富な
  資料画像をもとに解説していただきました。
  

 △10分間の休憩時間
  募集定員は100名とか。熱心な聴講者でいっぱいの会場icon12
  

 △清水喜臣 先生 「榛名詣でとその道すじ」
  榛名神社・宿坊・榛名講・太々神楽などの解説で、榛名神社が
  より身近なものになりました。
  

 夕暮れがせまり、帰りを急ぐ聴講者。。。  

 ◆榛名町誌刊行記念セミナー「榛名学ことはじめ」  
  第6回 11月24日(日)午後1時30分~4時
     原始古代編 榛名の歴史をひもとく1
     「火の山 榛名山と榛名地域」 早田 勉 氏
     「初めての榛名人」        巾 隆之 氏

  第7回 12月8日(日)午後1時30分~4時
     原始古代編 榛名の歴史をひもとく2 
    「古墳時代の榛名」       梅澤重昭 氏 
    「榛名・里見にもあった多胡碑」 松 田 猛 氏
      


Posted by 風子 at 20:45Comments(0)■歴史講座

2013年10月25日

下仁田歴史めぐり♪

坂本公民館の「ふるさと塾」主催の
“知っているようで知らない下仁田”を知ろう!ということで
下仁田研修に参加しました。  10/18


 △まずは下仁田町歴史民俗資料館を見学。
 職員の方に解説をしていただきました。(内部は撮影禁止) 
 幕末、水戸天狗党と幕府軍高崎藩が戦った「下仁田戦争」関連
 資料や、世界遺産暫定リスト構成資産である「荒船風穴」などの
 資料が展示されています。


 △ふるさとセンターから見下ろす里見家の建物
  この地域の名主屋敷で、下仁田戦争では高崎藩の本陣でした。
  
 大型養蚕農家の特徴をよく伝える建物として、登録有形文化財に
 指定されています。
 

 ふだん公開はしていませんが特別にお許しをいただき、お庭の
 見学ができました。その後下仁田戦争跡の碑へ。。。


 △下仁田戦争悲話として、今も地元の人々が
  供養をしている野村丑之助の墓
     

 △お楽しみのランチは下仁田こんにゃく観光センター
 

 △こんにゃくづくしのランチicon12はすごくヘルシー^^。

 ◆下仁田町ホームページ
  http://www.town.shimonita.lg.jp/  


Posted by 風子 at 15:41Comments(0)■歴史講座

2013年04月04日

第2回 安中市石仏めぐり(続) ♪

水境の白山神社跡からバスで東野殿公会堂に向かいました。3/24

 △白山比咩神社(しらやまひめじんじゃ) 
  3月17日に春祭では太々神楽が奉納されたそうです。
  場所がわからなかったので行けなかった神社に遭遇icon12
  

 △三猿庚申塔(江戸時代中期頃のもの)
  天孫降臨の道案内をした猿田彦の猿と申が結びつき、
  信仰の対象として、また封建道徳の戒めとして、三猿
  の像が刻まれたようです。参考:『岩野谷の石造文化財』
 

 東野殿の広々とした畑地の農道を歩くと。。。


 かつては辻にあったと思われる道祖神や大国主命などの石造物が
 集められていたり


 △如意輪観音像 (北野殿西・二夜堂 慶応2年)    ☆拡大します   
  線彫がくっきりと美しい観音様に出会えたりします。
  

 道標の文字が読みにくいときは、草でゴシゴシすると
 読みやすくなります。
 前:山道 岩井板鼻道 左:郡道ニ至 と読めました。 
 

 野殿から岩井方面に向かうと、辻に立派な二十二夜塔や多くの
 石造物が見られます。
 

 △道標
 向 右:中宿  前:安中  後:岩井 板鼻  
 左:藤木 富岡        北野殿壱年会

 バス移動と昼食休憩以外はウォーキングで、多くの石仏に出会
 うことができました。
 古文書仲間で文字の読み方を検討したり、普段何気なく通過
 していた場所にも貴重な石仏が遺されていたり、知りたかった
 場所に偶然行けたり・・・謎解きが楽しい石仏めぐりの一日で
 した^^。
 来年も他の地区の石仏をめぐる企画があるということです。
 皆さん、ぜひご参加ください。

 ☆第1回 安中市石仏めぐりはこちら

 ◆安中市学習の森 ふるさと学習館
   TEL 027-382-7622 

 ◆白山比咩神社(安中市岩井616番地)
   


Posted by 風子 at 20:26Comments(2)■歴史講座

2013年03月27日

第2回 安中市石仏めぐり

 3月24日(日、)安中市学習の森主催の碓氷歴史考古学講座
 「第2回 安中市石仏めぐり」に参加しました。


 バスはふるさと学習館を出発し、まずは板鼻へ。。。↑
 伊丹先生の解説で、八坂神社跡の広場にある大型の道祖神
 宿場の飯盛女たちが建立したものだと知りました。


 広場奥の神輿蔵の右側にある「聖寿萬歳」の石碑は
  

 荒木寅三郎氏の筆によるものということも、わかりました。


 次に向かった大谷の福泉寺跡。何度も通ったことがある
 道路の脇に廃寺があったとは・・・驚きでした。
 (福泉寺:安中市大谷熊野山674)
  

 △いぼとり地蔵(文化4年)   △子育地蔵 
  

 福泉寺境内には推定樹齢130年、樹高20m余の大きな
 クスノキがありましたが、枯れてしまい今は切り株だけ。
 敷地内には多くの庚申塔や石仏が遺されています。


 △智鯉鮒大明神
 この地区は蝮(まむし)が多かったので、三河国(愛知
 県)から霊験あらたかな池鯉鮒ちりゅう)大明神が勧請
 されたそうです。
 

 △富岡に向かう道路脇にイチョウの大木があり、毎年見事な
  黄金色をたのしませてもらいますが(水境 宮島)、通るたび
  に気になっていた赤鳥居は
 

 「蚕祖保食大神」と刻まれた、お蚕さまを祀る
 石碑がある白山神社跡でした。



 ここでも双体道祖神に出会いました^^。
 
  ≫≫続きはこちら  


Posted by 風子 at 23:52Comments(2)■歴史講座

2013年03月05日

第1回 安中市石仏めぐり (続)♪


 △高梨子の呼坂(よばざか)に百庚申があります。  3/3

 同じ「庚申」と言う文字でも、篆書(てんしょ)という字体のデザイン
 がそれぞれユニークで愉しく、コレクションしたくなりました^^。












 △なぜか一基だけ「國勝命」と刻まれたものがあり、不思議。。。

 ☆「第1回 安中市石仏めぐり」はこちら

 ☆「第2回 安中市石仏めぐり」板鼻・岩野谷地区はこちら  


Posted by 風子 at 09:05Comments(2)■歴史講座

2013年03月04日

第1回 安中市石仏めぐり ♪

3月3日(日)に碓氷歴史考古学講座「第1回 安中市石仏めぐり」
がありました。


 △24名の参加、講師は伊丹仲七先生(安中市文化財調査委員)


 △中村地区の道標 馬頭観世音 1811年(202年前)
  「右 はるな道(者=は)、 左 めうぎ道(妙義道)」  
  

 △中村地区の双体道祖神
  踊っているような男性icon12に、おねだりするような彼女です^^。  
  

 △道路脇にあった倒れたままで埋もれてしまいそうな道標
  「左 はるな道」と刻まれています。


 △「右 はるな道 左 山道」
  現在のように人家もなく、山に向かう淋しい道だった
  のでしょうか。。。


 △顔も体もぴったり寄せているアツアツのふたり
  「接吻抱擁双体道祖神」と云われているようです。


 △バスのドライバーさんも担当の職員さんも、待ち時間があり
  ご苦労さまでした。


 △道なき道を登って石仏や石塔を見たり


 △車で通過してしまうので、案内して頂かなければ知る
  ことが不可能な珍しい庚申塔などの見学ができました。
 

 △寛保と刻まれた江戸時代中期(約270年前)の双体
  道祖神。(室ノ木地区)
  しっかりと彼の腕にすがるかわいらしさ^^。
   
 この日に巡った国衙・高梨子・土塩(ひじしお)・上増田地区は
 双体道祖神、庚申塔、石仏等の宝庫のように思えました。
 〈参考:学習の森資料〉    ☆続きはこちら

 ■次回の石仏めぐりは3月24日(日)
  申込みは3月7日(木)から
  学習の森 ふるさと学習館
  TEL 027-382-7622  


Posted by 風子 at 13:58Comments(2)■歴史講座

2012年12月06日

下仁田・歴史さんぽ (3)♪


 青岩河原の次に、国道254号線脇にある山際公園で
 水戸浪士の戦いを伝える義烈千秋の碑を見学。
 公園の奥には桜の名所として知られる山際稲荷神
 社があります。
 

 △義烈千秋の碑の解説板  (クリックで拡大します)
  明治33年(1900年)に旧水戸藩士の呼びかけで建立された
  そうです。


 △天狗党が小坂坂峠を越えて下仁田に向かったとき
  下って来た坂道。
 

 国道を少し西に歩いて水戸浪士の墓がある本誓寺へ。
 

 △浄土宗 本誓寺  
  元治元年(1864年)11月16日、水戸天狗党と高崎藩士が戦った
  下仁田戦争で亡くなった高崎藩士36名が仮埋葬されたお寺。


 △境内にあります。


 △斎藤仲次、久保田藤吉の墓の解説板
  激戦地・安導寺合戦で亡くなった天狗党側戦死者
  4名のうちの2人ですが、身分や年齢は不明のよ
  うです。
  戦いの後、天狗党の重傷者は信州への峠越えで絶
  命した…と伝えられています。


 △奥の墓地にある斎藤仲次、久保田藤吉の墓
  

 茨城県常陸大宮市で400年の酒造歴を誇る根本
 酒造の「久慈の山」が供えられて…
 水戸ゆかりの方がお墓参りされたのでしょうか。


 △「下仁田」信号近くの伊勢山登り口
  天狗党は伊勢山から高崎藩本陣を銃撃し、勝敗が
  決まったと云われています。

 ☆下仁田・歴史さんぽ(1)はこちら
 ☆下仁田・歴史さんぽ(2)はこちら

 
  参考:下仁田町ホームページ 
      http://www.town.shimonita.lg.jp/
      下仁田の文化財          
    
◆義烈千秋の碑
 

◆斎藤仲次、久保田藤吉の墓
   


Posted by 風子 at 21:23Comments(2)■歴史講座

2012年12月04日

下仁田・歴史さんぽ (2)♪


 車で下仁田町内を5分ほど走ると、路地の一角に
 野村丑之助の墓があります。


 △野村丑之助の墓 解説板
 初陣の丑之助は13歳で田丸稲之衛門の小姓でした。
 下仁田戦争では小野派一刀流の使い手・高崎藩士
  内藤議八と奮戦し、右腕を斬り落される重症を負った
 ことから、同志と行動を共にすることができず、自ら願
 って自害し、首を討たれました。
  

 △「義烈千古を照らす」の碑


 △奥の小さな祠のようなのが野村丑之助の墓
  柵で囲まれていて近づくことはできません。
 

 △柵の脇には可愛らしいお地蔵さん
  説明書きがほとんど読めない状態ですが、この辺り
  から偶然見つかったお地蔵さんのようです。


 次に、鏑川に架かる橋を渡って青岩公園へ。。。
 下仁田ジオパーク(15)という看板があります。

 ☆下仁田ジオパーク  
  http://www.shimonita-geopark.jp/
  群馬県下仁田町は世界的レベルの地質学的な資源が
  たくさんあり、地質の宝庫といわれ、日本でも5指に入る
  ほど貴重な場所と言われているそうです。



 河原の巨大な緑色片岩を間近で見られるように、遊歩道が
 あります。


 青岩河原は、下仁田戦争で天狗党に捕えられた高崎藩士7名が
 処刑された場所とのお話でした。
  

 雨に濡れた岩のあやしい碧色が、戦の哀しさを
 思い起こさせるようでした。

   参考:下仁田町ホームページ
       http://www.town.shimonita.lg.jp/
       「下仁田の文化財」

  ≫≫続きはこちら
  ☆下仁田・歴史さんぽ(1)はこちら 

◆野村丑之助の墓(「下仁田の文化財」リーフレットからお借りしました)

◆青岩河原
 
  


Posted by 風子 at 22:26Comments(2)■歴史講座

2012年12月03日

下仁田・歴史さんぽ(1) ♪

きょうは「乍恐(おそれながら)会」という古文書学習会主催の
下仁田歴史民俗資料館の見学とランチ♪です。


 安中公民館前に集合しましたが、今にも雨が降りだしそうな空模
 様と寒さでブルブル。。。が、月曜日なので資料館は休館icon10とい
 うことで


 下仁田町の「下仁田戦争関連史跡」に関して、造詣が深い方に
 案内して頂けることになりました。
 明治維新の4年前・元治元年(1864年)、尊王攘夷運動の過激
 派水戸の天狗党が900余人の部隊を組み、一橋慶喜のいる京
 都へ向かって行軍中、上州下仁田で幕命により追撃してきた高
 崎藩軍と戦争になった
という下仁田戦争に関して勉強不足だっ
 たので、これは学べるチャンスです。(^^v


 △下仁田戦争跡の説明板(拡大します)


 △高崎藩士戦死之碑
  明治26年11月16日下仁田戦争30周年を記念して、
  最大の激戦地となったこの「岩下」に、勝海舟の
  書により建立されました。
 

 碑の左側には島崎藤村の詩碑があり  ↑
 「千曲川旅情の歌」の一節「過し世を志津かにおもへ 
 百年もきのふのごとし」と刻まれています。
 藤村は『夜明け前』執筆のため、下仁田戦争跡の取
 材で下仁田に宿泊したことがあるようです。


 碑の奥にある急な階段を登ると・・・


 ふるさとセンター(歴史民俗資料館)があり


 高台から見下ろすと、高崎藩本陣里見家の土蔵が
 見えます。
 高崎藩は小坂村名主里見治兵衛宅前に陣を構えたが、
 水戸天狗党の三面奇襲を受ける。蔵には当時の弾痕が
 残る。(下仁田町ホームページより)



 戦いのとき、高台から撃った弾痕が壁にそのまま残されている
 ということですが


 うーん、どれが弾痕なの?

 ≫≫続きはこちら

 ◆下仁田町ふるさとセンター(歴史民俗資料館)

  


Posted by 風子 at 22:08Comments(0)■歴史講座

2012年11月25日

企画展連続講座「碓氷郡の信仰世界を読み解く」♪


 企画展連続講座 第1回は中尾堯先生の「石仏に観る庶民の信仰
 世界」でした。(立正大学名誉教授・前日本古文書学会会長)
 中世の石造物に見られる地域別の特徴として、西国、瀬戸内海沿
 岸(細工しやすい花崗岩が多い)に石造物が盛んに造られたそう
 です。
  

 ▲後閑城址の百庚申(2010/4/8撮影)

 他の地域に比べると、安中は庚申塔が多いと感じられるということ
 ですが、庚申塔が百基もあるのは珍しいことなのだそうです。
 後閑城本丸の自然石に刻まれた庚申塔の「庚」の文字は、2画目
 の横棒が斜め右上がりという特徴があり、同一人物が短期間に造
 ったと見られるとか。

 この他にも下秋間の百馬頭観音なども珍しく、農耕馬に対する親し
 みや愛着が感じられ、上州に根付いた信仰の形のようです。
 ちなみに広島(先生の出身地)では農耕は牛だったので、牛に対す
 る信仰が見られるとか。
               *
               *
 最後に 「熟覧」 と云うことばを教えて頂きました。
  熟覧:じっくり向き合うこと。
 「古文書も熟覧しなさい。じっくり向き合うことで、現在と過去の
 対話を見出だしてほしい」と話されたのが心に残りました。

 ◆第12回企画展「碓氷郡の神と仏」  
  2012/11/3(土)~2013/2/3(日)
   安中市学習の森で開催中   


Posted by 風子 at 22:29Comments(2)■歴史講座

2012年10月06日

新島八重さんにまつわる悲話 ♪

安中市立図書館講座「新島八重子婦人と安中」を受講しました。
講師は淡路博和先生です。



 先日も「古文書の話ならいくらでもできるけど、専門ではないか
 らねぇ」とおっしゃっていましたが、八重さんの生い立ちから、会
 津藩の事情、兄の山本覚馬氏の人となり、結婚後のこと、新島
 襄先生亡き後、安中を訪れた時のエピソードなど…充実した盛
 り沢山の内容でした。(講座では尊敬をこめて八重子さんと呼ば
 れていました)

①ジャンヌ・ダルク時代
 (会津戦争当時を再現して56歳のとき撮影)
 22歳の八重さんは断髪し、弟三郎の形見の軍服で男装し、銃を
 片手に勇ましく闘いました。
②ハンサム・ウーマン時代
 京都に移住し、英語を学び洋装で明治の新女性として、女性教
 育者として活躍しました。
③ナイチンゲール時代
 夫の死後日本赤十字社の社員となり、日清・日露戦争時は篤志
 看護婦として従軍。その後もさまざまな形で社会福祉に尽くしま
 した。(画像は新島八重と会津/パンフレットより拝借しました)

 で、以前から気になっていたことですが
 八重さんは19歳の頃に実家(山本家)に寄宿していた但馬国(兵
 庫県)出石藩(いずしはん)の医家の生まれで、蘭学と舎蜜術(理
 化学)を修めた有能な洋学者・川崎尚之助さん(日新館で教授を
 務めた)と結婚しています。
 二人が結婚して3年後に戊辰戦争が勃発し、鶴ヶ城籠城戦を前に
 離婚しました。
 多くの藩士が鶴ヶ城開城の際に離婚したそうですが、それは妻へ
 の愛情の証だったのではないかという見方があるようです。
 二人は一緒に戦いましたが、その戦いの最中、夫の尚之助さんは
 行方不明になったといわれています。
 そして、その後の消息がどこにも見当たらないことが不思議でした
 が、淡路先生の解説では、尚之助さんが江戸にいるのを知った兄
 の覚馬さんが一緒に京都へ連れ帰ろうとしたのですが、失意のど
 ん底にあった尚之助さんは帰ろうとはしなかったとか。
 その後、明治8年に38歳の若さで亡くなったそうです。
 そして、、、新島襄先生・八重さんは明治9年に結婚しました。

 【参考】 「新島八重子婦人と安中」講座資料
      「新島八重と会津」パンフレット
       (会津若松市「八重の桜」プロジェクト発行)       
      サイト/八重のふるさと福島県
       http://www.yae-mottoshiritai.jp/
  


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2012年08月21日

安中で発掘された古代道路と遺跡 ♪

『発掘された安中の遺跡』展示について
学習の森の佐野さんに解説していただきました。(8/18)


 △人見向原遺跡 牧関連区画大溝/松井田町人見(パネル)

 西横野東部地区で実施されている発掘調査で見つかった 
 深さ1.5m 幅3~4m の大きな溝は、台地を区画するものでした。
 大溝そのものには人が住んでいなかったので、遺物は少ないそ
 うです。


 古代交通網の整備をうかがわせる、発見された古代道路
 8世紀前半以前のものだとか。


 約10m幅の直線道路が1.5kmにわたって確認されています。
 その規模を見ると、中央国家と古代「碓氷郡」との関係を知る
 上での重要な発見と言えそうですが、なぜか50年くらいで廃絶。
 何の道路だったのかは謎icon10で、東山道ではない?らしい…。  


 夏休みなので小・中学生が自由研究に訪れていました。
 

 △畿内から持ち込まれた初期須恵器
 遺跡のあたりでは土器しか作れなかったので、大阪方面から
 運ばれてきたもののようです。

 
 △こちらは東北からのもの。葉っぱのように薄いナイフ


 △耳が3コ付いている、使い途がわからない壺や


 △縄文土器 


 △加賀塚遺跡から出土したミニチュア土器や土製・石製紡錘車

 【参考資料】
  『発掘された安中の遺跡2012』(安中市学習の森/発行)

☆「発掘された安中の遺跡2012」展は9月2日(日)まで
  開催されています。

 ◆安中市学習の森ふるさと学習館  027-382-7622
 

   


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